一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

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明治期の処遇施設について 3

2016-10-06 18:43:15 | 日本法制史Ⅱ
明治期の処遇施設について 3

 81年、フランス・ベルギーの法制を参照し、監獄則が改められたが、偏に小原氏の『監獄則並図式』の影響がある。責任者の小野田氏は、ヨーロッパを視察し、泰西監獄問答集を作成した。82年施行の旧刑法との整合を意識し、拘禁区分により、集治監、懲役場、拘留場、監舎、懲治場など、が設置されるものであるが、懲治場については、尊属の出願により、不良子弟を預けるという、日本の慣習を制度化したものであったと指摘される。

 旧刑法体制下、予算措置を地方税に依存するなどしながらも、設備・制度の近代化を進めるも、西南戦争や自由民権運動の伸長により、囚情ははかばかしくなく、85年、山県有朋は、監獄の目的は、受刑者に苦痛を与え、反省を促すものであると、訓示を与え、懲戒主義の思想は、根強く浸透した。
 
 しかし、条約改正交渉を進展させるためには、欧米並みの監獄行政を敷く必要がある。89年監獄則が改められ、施行規則が制定され、刑事被告人すなわち未決拘禁者への処遇が緩和され、罪質、年齢に応じた拘禁区分の細分化、ひととき復活した囚人自治制度を廃止し、親族の情願にもとづく収容の制度も削除され、かわりに非行少年収容施設としての感化院が設置され、懲治場における刑期満了者への処遇を禁止した。一方で、大日本監獄協会が設立され、監獄行政の改善運動が展開されるなど、民間の圧力もあり、監獄官練習所においては、ドイツから雇用した内務省の監獄顧問クルト・フォン・ゼーバッハによる講義も行われた。1900年には監獄制度が司法省に移され、1908年かの有名な監獄法が制定する。
 
 奈良少年刑務所の閉鎖に伴って、明治期の近代監獄の建築は、領事裁判条項の撤廃と言う悲願を背景に、進展したという歴史を、ネット上で教えてもらいました。

 以上
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