百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

興福寺阿修羅像は何故 穏やかなお顔なのか ~ BS11 H29.11.8 「尾上松也の謎解き歴史ミステリー」より

2018-02-05 15:15:20 | 日記
 また 長いこと ご無沙汰してしまいました。そうでなくとも ぐずぐずしがちなのに、あと一ヶ月で 97 になろうかとする婆さんが身罷ったり、インフルエンザに罹ったりしますと、目を覆わんばかりの惨状を呈してしまいます。が、そこはなんとか エネルギーと落ち着きを 完全とは言えないまでも取り戻したかに自覚できる今日この頃、ぼちぼちとはありますが、ブログ化したいと思っていた案件 小出しにではありますが、お披露目申し上げたく存じております。


 これは 昨日(H30.2.4)の 我が家 離れ入口前に植えている 蝋梅であります。日照時間のめっちゃ短い場所柄、開花は遅れてしまうのですが、この程やっと甘い香りを漂わせてくれるようになりました。

 さて、阿修羅と申しますと修羅と同義語でありますから、まずオイラの場合、昔あった まさに修羅場と化した夫婦のイサカイが思い出され、次に 賢治さんの詩「春と修羅」、向田邦子さん原作・脚色のドラマ「阿修羅のごとく」といった文芸ものが、さらに 仏教では六道ということで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天 とに分けられているということ、また、そもそもの出自の 古代インドの神様内では、帝釈天と闘い続けることを運命づけられた暴虐非道の鬼神ということでありますからして、奈良・興福寺さんの阿修羅像は、このコトバのイメージとは まったく及びも付かない、実に柔和で美しいお顔・お姿をなさっておられるのでありますが、

この謎解きが、H29.11.8 BS11 「尾上松也の謎解き歴史ミステリー ~ 興福寺阿修羅像の謎 経典に秘められた思い」で、実に分かりやすく説明されておりましたもので、本稿は、それを 備忘録としてまとめることを 思い立ったものでございます。 



 平安時代初期創建という たいへん由緒ある 熊本県山鹿市鹿央町霜野の古刹「康平寺」さんには、鎌倉時代に彫られたと推定される、本来の阿修羅像が、二十八部衆の一体として このようなお姿で祀られているとのことであります。





では 何故 興福寺の阿修羅像はこのようなお顔なのかというと、興福寺の多川良俊さんのお話によりますと、8世紀に遣唐使によりもたらされた「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」に、その経緯(いきさつ)が はっきり記されているとのことなのです。







それはです、あるときお釈迦様は 10人の弟子を集められ 説法を始められたのだそうな。そこへですね、古代のインドの神様方も連れ立ってやってこられ、何と 一緒にお聞きになったそうな。当時のインド、約2400年ほど前のこととなりますが、実にゆったりした マッコトいい時間が流れていたものでありまして、で お釈迦様のお話を聞かれたインドの古い神様方も、「おうおう そうであったか、お釈迦様の言われることが 尤もだ !!! 、ほんにその通りや !!! 、ワイラも目が醒めたでぇ !!! 」と、心から納得され 改心されたそうな。興福寺の阿修羅像は、まさに この瞬間のお姿を捉えたもの なんやそうな。











「実に 解りやすい ええお話やなぁ」と、甚く感心した次第に ございます。

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