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三峰神社縁起(資料)

2015年01月04日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 河内神社が正式な神社名であるが、一般に知られている神社名は三峰神社である。三つの峰を持つところから三峰山と称し、其処に祀られた神社故に称された社名である。祭神は大己貴命、日本武尊、少名彦命、菅原道真外七柱となっている。

 

 由緒、三峰山宝物写によれば、抑上毛利根郡沼田郷三峰山河内大明神由緒の義は、掛け幕も当初人皇七十八代二条院平治元年(1159)己夘十一月九日、河内国河内郡一宮牧岡の神社を此処に祭る。其の由来は社頭宮下の元祖、宮部右馬頭藤原義信とて、その古は河内国の領主たり。牧岡は藤原氏の神祖たり。よって殊更信心慇懃なり。 ー後略ー

 また、先進繍像玉石雑誌に曰く、河内大明神と言うは三輪神(大物主神外二神)と同体なりという。或は凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)を祭るという。 ー以下略ー

 

 さて、河内神社の由緒を掲げたのは、凡河内躬恒を引き出したい為であった。
三峰山宝物写には凡河内躬恒の名は見えていない。
先進繍像玉石雑誌がどのような雑誌であるかわからないが、畿内の凡河内氏は平安時代の史籍に多く下級地方官程度の所で表われ、歌人躬恒もその一人であったことが立証されている。


 躬恒は三十六歌仙の一人で、父は淡路権掾凡河内利である。
 躬恒の経歴は寛平六年(894)甲斐少目、延喜七年(907)丹波権大目、同十一年泉権掾、同二十一年正月三十日淡路権掾となり、その任を終えている。
 その間古今和歌集の選者を命じられ、紀貫之に次いで六十首の歌が採用された外、延喜の種々の和歌の催しに出詠し、二十一年の京極御息所褒子歌合への出詠まで続いており、没年は定かでない。  

 この躬恒が三峰神社の主神であるという伝えは何処から派生したのか。
 その大元は河内国河内郡一宮牧岡の神社を勧請して薄根の地に祀り、河内神社と命名したところにある。
 この河内と凡河内の河内が混同されて古今和歌集で名を馳せた凡河内躬恒を神に仕立てたものである。 
 都合のよいことに躬恒の没年が不明であったことも一助となった。躬恒が歌合せなどの判者を多く行なっていることから、いろいろな憶測が飛び交い、此処に一つの仮説が誕生した。そしてあたかも事実であったように宣伝され伝説化したのである。その根拠が「躬恒宮」の誕生である。 

 

 

 さて、その伝説であるが、躬恒は承平天慶の乱(940)の後の歌会で、村上帝の歌を書き損じたという咎(過失)により、上毛野国沼田郷の三峰山麓に流罪の身となり、単身のわび住まいを強いられた。

 その数年後の秋の候、妻の花萩御前が躬恒の住まいを訪れたが、生憎その日官吏の巡視日であったので、流された身ゆえ会うこと叶うまじ、といって再会は叶わなかったのである。
 その状況を妻の花萩は次のように語ったと伝えている。

「逢いに来てわらわ花萩は何を仕らんや。
ただ、ひたすらに吾夫(つま)の身を思うのみぞ。
逢えぬは死地に赴くよりも悲しきこと。
ひと目なりとも見ましきものを・・・・」 
と言って、わずかに開いていた戸の隙間から吾が夫を慕って、

 

 いかにせん哀しくばかり身をも浮く

   ささかに見ゆる吾夫を慕えば      (ささか=ごく僅かの意)

 

とやっとの思いで歌にして今の心境を夫に伝えたと言われる。
この歌に対して躬恒も、これが今生の別れ、と返した歌が次の二首であった。

 

 秋露の晴るる時なき心には

    立ち居のそらも思ほえなくに


 世を捨てて山に入る人山にても

    憂きときはいづちゆくらむ 

 

 花萩は、傷心の身を引きずりながら、近くの寺に身を寄せ、夫の戒めを解く二十一夜の祈りに入ったが、遠路の旅の疲れと逢えぬ傷心の思いから満願の日を待たずに天国に召された。 

 躬恒はこのことを大分後になって知ったのであるが、知ったときには躬恒も既に憔悴しており、「せめて髪の毛なりとも」と、官吏に懇願したという。
 だが、受け入れられず花萩が天国に召されてから半年も経たずにあの世へと旅立った。

 利根伝説書留記によると、村人達は躬恒と花萩の悲愴な死を悼んで、神として祀るべく凡河内躬恒を三嶺(みつね)と解して三峰山と称して、山中に祭祀してある十二神社に躬恒宮として合祀したという。
 その拝殿に、右の三首の歌、花萩の歌を中にした三首が明治の初期まで飾られてあったといわれる。

          ー利根伝説書留記・聞き取り(昭和三十五年)等ー   

 

                以上、飯塚正人『異聞 刀祢の伝説』啓文社印刷 より

 

 

(注)後になって、三峰神社の表記は「峰」ではなく「峯」が正しいことを知りましたが、ここでは原文のままとさせていただきます。

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