幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

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最近の話題の美術展に関する感想 2019.8.9 Facebook

2019-08-14 21:13:54 | Weblog

最近の美術展に関して、保守対リベラルの図式での対立に関して、私の私的感想を書いておく。
まず、日本人はなんでも欧米の猿真似をする必要はないと思う。(以下「思う」は省略する。)
ドクメンタやベネチア・ビエンナーレのような国際的な展覧会を日本でも開催しなければならないという強迫観念は抱く必要はない。欧米の猿真似は明治の近代化だけで充分だ。
そして、パリからニューヨークに美術の中心が移ったのは、ロックフェラーなどが投資したからだ。ウォーホルやポップアート、コンセプチュアルなどがアートと呼ばれるようになったのは、ニューヨークの石油金融資本が投資したからだ。
そのニューヨークのリベラリズムが、今もなお、世界最先端の現代美術だというのは、もしかしたら時代遅れかもしれない。
今、こんな思考実験をしてみたらどうか。
例えば、ドイツの国際展で、ヒットラーを賞賛するアート作品が展示されたとする。たぶんユダヤ人権擁護団体が猛烈に抗議するだろう。一方でネオナチは、「これは表現の自由だ。現代アートであり政治ではない」と主張する。これは今回の愛知トリエンナーレの真逆の想定だ。昭和天皇の肖像を焼く、に対して、ヒットラーを賞賛する。極右が表現の自由を主張し、リベラルが展覧会を批判する。
このようなことがもし起きたとしたら、ニューヨークタイムズは即、これはナチスの賞賛だ。断じて許されない。現代アートとは呼べない。と記事を書くだろう。
たぶん、ドクメンタでは、このようなことは起こり得ないだろう。ヨーロッパ現代美術のキュレーターはもう少しユーモアのセンスを有しているはずだ。
ところが、アート後進国の日本の地方都市で、このような想定の真逆のことが実際に起きた。そして、現代アートの危機だと島国の中で騒いでいる。その現代アートとは、欧米の猿真似アートなのではないか? いや、ニューヨーク以後のロックフェラー資本のアートなのではないか?


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