鈴木邦男氏の『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)は面白い。愛国者歴40周年の鈴木氏だからこそ、書いた内容だ。近く発足する安倍政権が、最優先課題で取り組むのが「教育基本法改正」だという。とすると、ふたたび愛国心論争をしなければならない。鈴木氏の新書は5月に発売された。すぐに、読み終えた私は教育基本法特別委員会の審議に活用させていただいた。
「愛国とは何か」「愛国者とは何か」「愛国者と真の愛国者は違うのか」 質問を考える際のいいヒントをいただいた。鈴木氏に会った際に「参考にさせてもらっています」と言ったら「どうぞ」と快諾してくれた。秋の国会で「愛国心論争第2弾」を始めるにあたって、ネイキッド・ロフトで続けている世直しトークシリーズにお招きして、じっくり話を聞くことにしたい。(といっても、トークライブは明日の7時30分より)
私は中学校から高校進学時の内申書に「政治活動の事実」を事細かに記載された体験を持っている。「ベトナム戦争反対の市民のデモに参加した」ことが、内申書の「備考欄」「特記事項欄」に記された。憲法上、保証されているはずの「思想・信条の自由」や「集会・結社・表現の自由」は、内申書という文書の目的外使用によって踏みにじられた。という体験があるせいなのか、「内心の自由」については極めて敏感だ。
とどのつまり、「教育の目標」などに「愛国心」を銘記してしまったら、子どもの心の中に分け入って、「愛国心評価」を始めなければならなくなる。評価は、他の生徒との比較となり、結果的に「愛国心旺盛な子」と「愛国心の見いだしにくい子」に大別されていくのは自明の理である。それで、いいのか? 鈴木氏は問いかける。
福岡の小学校で「通信簿に愛国心があるかどうか」の欄があり、問題になったことがある。これもひどい話だ。大人だって愛国心があるかどうかわからないのに、子どもじゃなおさら無理だ。「私は愛国心があります」と言ったら、それだけを信じるのか。あるいは試験をするのか。そんなことをしたら、「自分には愛国心がありますが、隣の席の〇〇君は自民党の悪口を言ったから、非国民です」なんて密告する生徒が増えるのかもしれない。また、愛国心のあるなしを競うというのも変な話だ。(『愛国心は信用できるか』71ページ)
このあたりの感覚は、そっくり同じだ。小泉総理に、共産党の志位委員長と共にこの「愛国心評価通信簿」の事例を問うたことが、反響を呼んだ。さらに、「愛国者」をめぐっての論戦も続けた。「私は愛国者だ」という人を鈴木氏は、あまり信用できないという。
ある人が本当の愛国者だったかどうかは、その人が死んでから判断したらいい。「この人は声に出しては言わなかったが、その行ないは愛国的だった」とか、「この人は愛国者だと自認し、主張していたが、他人には迷惑ばかりかけ、とても愛国者とは認められない」……とか。生きているうちち「俺は愛国者だ」と叫ぶのは、見苦しい。「俺は愛妻家だ」と叫んでいるようなものだ。(同書32ページ)
わかりやすい。「愛国心教育の目標は愛国四股を育てることなのか」という疑問がふくらんでいく。日々、愛国心を磨き上げる小さな愛国者たちは「愛国児童」と呼ばれるのか、愛国少年なのか……この続きは明日話したい。

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