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「元気印」という言葉を作ったのは私である。これは、知る人ぞ知るエピソードだが、1982年に集英社の芸能雑誌『明星』の読者コーナーで、学校問題をレポートする連載コラムをスタートさせた時に、「無題」というわけにいかないので「元気印レポート」としたのがメジャデビューである。さらに、『いこうぜ元気印--学校地獄からの脱出』(雑誌『80年代』別冊・1982年7月野草社刊)というブックレットも出している。いまや手元に数冊あるばかりだが、今から25年前の仕事である。

私は「全共闘運動」の影響を受けて、中学時代に「政治少年」となった。「団塊の世代」より7~8歳年下だが、政治的文化的には同時代を生きた経験を持っている。学生運動が高揚した時期が去って、高橋和己の『憂鬱なる党派』(1969年河出書房新社)や、高史明の『夜がときの歩みを暗くする時』(1971年筑摩書房)などを耽読して、苦い喫茶店のコーヒーを飲んでいた青春のひとときで強く影響を受けたのが中国の作家、魯迅の雑感文だった。魯迅の文章に「絶望」し、「枯渇」しながら、書き続ける気迫と意志を学んだ。

もうひとつ鮮烈な世界観の転換をくぐったのが、沖縄への旅だった。60年代末の学生運動が「否定」そして「否定」の連続だったことは、よく知られている。だからこそ、若くして亡くなった高橋和己は『わが解体』を著し苦悩をにじませた。簡単に言えば、「肯定し信じられるもの」を沖縄文化の中にいくつも見いだしたのが、1978年から79年にかけて何度か訪問した沖縄の旅だった。「否定」から「肯定」へ、そしてネガティブからポジティブへ、さらには「ポジティブ・バイブレーション」(生き生きと躍動的な波動)が、単純語である「元気印」に変容していく。

このような経緯を経て「元気印」は世の中に出ていった。言葉には、こうして時代を駆け抜ける風を浮力にした固有の物語がある。そんなことは、いっこうに知られる必要がないと思い、「元気印バーゲン」などの幟をスーパーで見るとこの時期にことをひとりで思い出してきた。

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