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昨日は、1972年から1988年までの16年間、私自身が原告となりたたかった内申書裁判をふりかえるひとときを持った。裁判が始まった当時は、16歳の少年だから、「内申書裁判をささえる会」という会に集まる大人たちの応援によって大規模な裁判は始まった。

主任弁護士だった中川明さんは北海道大学で教鞭をとっていたが、東京に戻ってきていて明治学院大学法科大学院で週に1回、「憲法」を学生たちに教えているという。すでに何回か司法試験にも出題された内申書裁判は、憲法19条「思想の自由」14条「信条による差別の禁止」関連の代表的な判例として司法試験をめざす人たちは、ほとんど勉強する。

『小説内申書裁判』(光文社)を書いた作家の小中陽太郎は、吉川勇一さんや小田実、鶴見俊輔、日六郎といった人々とべ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)の活動をしていた。最近、小中さん自身が発掘した米軍からの脱走兵たちとの記者会見の様子を編集したビデオを上映、時代背景を語った。私は、生まれて始めて1970年に、清水谷公園に集まっていた「べ平連定例デモ」に顔を出していた。そのことを後で知った小中氏は、「いささかの責任を感じて」この裁判に注目し取材をした上で本にまとめたのだという。

 そして、ささえる会で市民の立場から応援してくれた糸井玲子さんや、この市民運動の柱だった故昌谷忠海さんの妻、真砂さんなど次々と関係者が当時のことを語り出してくれた。夜のふけるのも早く、はじめて「内申書裁判」を知ったという人たちも、当時の関係者たちの証言に熱心に耳を傾けてくれた。

 物事は20年経つと歴史になる。私の体験した内申書裁判も、そのひとつになりつつあるという思いを強くした。忘れてしまわないうちに、きちんと記録をしておく必要があるようだ。


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