ほるほる

矢作川のほとりで枝下(しだれ)用水を、
徐福・百済王で中韓日の渡来人伝説を楽しむ
逵(つじ)志保のページです

2016年10月22日 2016富士山徐福フォーラム国際大会(日本・富士吉田)

2016-10-23 22:33:13 | 徐福伝説
さあ徐福月間の最終回です。
20日、青島空港の免税で「おお安い!」と青島ビールを1ケース購入。日本入国の税関で引っかかり納税(考えたら当たり前の話だけれど、こんな買い物したことなかったので気づきませんでした。でもトータルでもかなり安かったからよし!)。そして深夜帰宅し乾杯!
そして翌日21日23時名古屋駅発、22日8時着富士山駅の深夜高速バスで富士吉田へ。登山客に紛れて?と思っていたら、手前の富士急ハイランドで殆どの客が下車。こういうルートで富士吉田に行けることを初めて知りました。
富士山駅まで迎えに来ていただき、みなさんが宿泊しているホテルで身支度。懐かしい顔と再会再会。

中国のZさんとは今回の徐福月間を全て一緒に過ごしたのだけれど、Zさんのおつれあいとはここが数年ぶりの再会になりました。Zさん夫婦は私の両親と歳が同じで、Zさんの息子も私と歳が同じ。私が初めて徐福を知った20歳のときに、地元テレビ局の人としてであっているので、もう30年の付き合いで、中国の父さん母さんと呼んでいます。
2012年に象山で私が表彰されることになったとき、中国のお母さんは私の表彰だから見に行くよと言ってくださっていたのですが、それが開催延期となって、結果4年ぶりの再会でした。中国のお母さんだけはいつも会うと私を見て「痩せたんじゃない?」と気にしてくれます。いえ、全然痩せてませんから!

午前は宮下文書を拝見に行くという方たちがあって、せっかくなので連れて行っていただきました。

宮下家の方たちが「自分たちはよくわかっていなくて、よっぽどこれらの本読んでもらったほうがわかります」と雑誌『ムー』などを見せてくださって、きっといろんな方が訪ねて来るのだろうなあと思いました。

そして午後から2016年10月22日、主催富士山徐福学会、共催神奈川徐福研究会、実施団体富士山徐福フォーラム国際大会実行委員会による「2016富士山徐福フォーラム国際大会」が開催されました。


開会には富士山火焔太鼓があり、

途中休憩の後には、サプライズ!元ふきのとうの山木康世さんの歌とギターがありました。「私なりに徐福を理解して」と歌った徐福の歌には「徐福は友だち」というフレーズがあり、それがとても新鮮に響きました。

確かに徐福は地域に根付いた神であったりして、かつては熊野でも「徐福さま」と呼ばれていました。それがいまではどの地域でも新宮のように「徐福さん」と言われています。熊野市でもすっかり「徐福さん」になりました。これは徐福に対する信仰心がなくなったと嘆くよりも、徐福に対する思いが変わってきたのだと思います。「徐福は友だち」というのも、いま頷ける気がします。これはメッセージと受け取りました。

私も最後のパネルディスカッションに登壇しましたが、今回、全国各地、あるいは中国も含めて、これだけ多くの人が集まったのは、長年この地で徐福を顕彰してきた土橋寿さんを思ったからだと思います。国際会議をするのに不慣れなところはあったものの、それでも新たな人が徐福に興味を持ってくれるきっかけにはなったように感じました。
大学院生が調査研究のために大会に参加している姿もあり、それも大いに励まされました。

翌日23日は伝承地の見学。今日は本当によく晴れて、山中湖から望む富士山は素晴らしかったです。

これまでに伺ったところも何年も経って様子は随分変わっていて、また新たな伝承地もあって勉強になりました。

帰りはIさんの車に乗せていただいて、中国から参加の友人2人と一緒に送っていただきました。Iさんは中国語がバッチリなのですが、私が話せないため、車中は携帯の翻訳機を駆使して楽しいドライブ。いろんな話ができて、こういう時間が大切なことも実感しました。

これにて徐福月間は終わります。嬉しい悲鳴の徐福月間、たくさんの収穫と課題を得て、これからもまた頑張りたいと思います。




2016年10月19日 2016徐福文化と「一帯一路」都市文化産業国際フォーラム(中国江蘇省贛楡)

2016-10-23 00:41:17 | 徐福伝説
2016年10月18日、セントレアから朝の便で2時間半ほどで中国青島へ。すぐあとに釜山から同じく2時間半ほどで到着したKさんとともに、贛楡からの迎えの車に乗って約3時間、昨年と同じ会場の和安湖国際大酒店へ。

とてもきれいな日本語を話す通訳のSさん、聞くと贛楡に暮らす日本人。おつれあいの故郷に暮らしているとのこと、時代は変わってきたなあと思います。今から29年前、私が贛楡に行ったのは、戦後初めての外国人の団体ということで、ようやく許可が下りたときでしたから。
そんな私の贛楡との出会いの歴史もあって、今回、地元のテレビ局からのインタビューで、「初めて来たときと贛楡はどう変わったか?」という質問がありました。
いやいや本当に変わりました。
29年前、高速道路はまだなく、長江に近い揚州だったかどこかから、一日かけてプラタナス並木のガタガタ道を延々と北上し、晩に連雲港市に入ったものでした。
それが今では青島空港から高速道路で3時間。
来年には、遅くとも再来年には青島から贛楡まで新幹線が通り、1時間で来ることができそうです。

10月19日「2016徐福文化と「一帯一路」都市文化産業国際フォーラム」が開催されました。

今回はかなり急な開催となったのですが、国務院発展研究センター元副主任・陸百甫さん、文化庁元副長官・周和平さん、韓国からは元文化観光長官で韓中親善協会会長・李世基さん、日本からは日本在中大使館公使・石川浩司さんなどが開会式を盛り上げてくれました。
今回報告すべきところは徐福文化国際フォーラム(贛楡)事務所の設置です。2015年の大会で宣言していたように、ここを拠点として世界文化遺産登録に向けて動き出していこうということでした。(Qさん写真ありがとう!)


私も2015年の大会を受けて、日本徐福協会が設立されたことなど、今後の課題ととともに報告しました。
現在のように頻繁に集まりがあると、気になるのは韓国での開催時は「韓中日…」、中国では「中日韓…」、日本では「日中韓…」と入れ替わります。これって徐福の集まりなのだから徐福の移動方向を考えて「中韓日」でいいのでは?これは日本徐福協会設立のときに発言し、賛同を得たので、ここでも提案しました。
また、せっかく盛り上がってきた徐福ですが、こんなに頻繁に各地の事情で開催されていては体が持たない。良い調査報告もできません。それは複数参加している人から声が上がり、これも計画的に進めたいという話になりました。
まだまだどこまで上手く進めていけるかはわかりませんが、「徐福で集まる私たち」という考え方がだんだん出てきていることは嬉しいことだと思います。

まだ嬉しいことがあります。それは今回、日本からOさんが参加してくださったこと。ぜひ徐福を語って欲しいと思う研究者が、こうした集まりに来てくださって報告してくださることはなによりも励みになりました。そして参加したくなるような大会を開いていきたいと思います。

そして今回も北京から同時通訳の方たちが駆けつけてくれて、会議はリアルタイムで理解していくことができました。4人の通訳のかたがブースに入っておこなうのですが、うち私の親しい友人が2人、会議後直帰するはずだったのを、私と一晩ゆっくり話そうと残ってくれました。夜のホテル周辺を女3人でおしゃべりしながら散歩し、部屋でお疲れ様の乾杯!徐福が縁でこんなにも打ち解けて過ごせる仲間ができたこと、何よりも感謝です。

さて、最終日を待つ間もなく、Zさんは上海へ、Qさんは北京に向かいます。お二人とも次の日本での徐福イベント参加のために出発です。
10月20日、午前中、大会の見学コースを離れ、30年ぶりに連雲港市内の孔望山にあそび、美味しい海鮮料理をいただいて夕刻の青島発の便で帰国しました。

帰りに中国徐福会会長・張雲方さんから「私と徐福」という日本語で書かれた文章をいただきました。これは昨年から折に触れて私に聞かせてくださっていた話でしたが、まもなく会長を退任するにあたり、ご自身で文章にしたものでした。私だけでなく多くの日本で徐福に関わってきた人たちへのメッセージでもあると思いました。機会を見つけてお伝えしたいと思います。