遅きに失した話だが、昨日は「昭和の日」であった。
以前は、昭和天皇の誕生を祝って、「天皇誕生日」の名称で祝日としていた。
しかし、昭和天皇が昭和64年(1989年)1月7日に崩御されたので、以降は「みどりの日」という名称に変えて、祝日としてきた。
その後、種々の論議を経て、平成19年(2007年)から「みどりの日」を5月4日に移し、4月29日を「昭和の日」とした。
そのことによって、ゴールデンウイークがさらに拡がりと厚みのある感じとなった。
昭和の時代をどう思うか。それは人それぞれであろう。
昭和ひと桁世代の私としては、「祝う」か「記念する」か,あるいは「反省する」かは別の議論として、あの激動の「昭和」の名称は残してほしかった。
国民祝日として制定するためには、「祝う」か「記念する」ものであるらしいのだが、「反省する」があってもいいではないか。
昭和30年台までの日本は、激動と苦難の「昭和」であった。そんな過去を、消し去ることはできない。
むしろ、その「激動と苦難」の時代に思いを馳せ、反省のよすがとすべきではなかろうか。
私は戦争に駆り出されはしなかったが、悲惨な時代の真っ直中を生きてきた。
次世代の人たちからすれば、先輩たちの失敗に対し、憤懣やるかたない思いもあろう。
しかし、昭和を貶しこき下ろしてみても、時代の針は戻らない。
一部には、「天皇責任論」もあって、「退位すべきではなかったか」と主張した人もいた。
天皇ご自身の胸の内は伺いしれない。
日本国民を戦争に巻き込んだ張本人は、一体誰だったのだろうか。
やはり、時代の「空気」ではなかったのか?
空気を煽ったのは軍部官僚とマスコミ。愚かにもその煽りに乗せられ、戦争への道を走ったのは、国民自身だったように思える。
政治家はどうしたのだろうか。オロオロしていたに違いない。
今も同じ。官僚制度の中で、操り人形みたいな政治家。
国民に痛みを押しつける前に、無駄を生産している制度の疲労を、叩き直すべきなのに。
戦争への道へ国民を突っ込んでいった犯人は、「空気」だったのだ。
すでに亡い先輩たちの思いは、どんなものであったろうか。
重き荷を降ろせし思ひ風光る 鵯 一平
うららかな風わたる春の日の柔らかい光。まるで風が明るく光っているようだ。
「風光る」は春の季語。
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しかし、言論の自由はなく、神国だと言う教育をして、突き進んでしまった。
戦後、同じ轍を踏まないように皆で努力したから、60年以上の平和が続いているのだと思います。
この平和を続けるのは、もう次の世代の人達の責任ですね。
昭和の日が、戦争を考える一つの機会であれば良いのですが。
子供だった私は、「兵隊さん」になることだけを考えていましたね。
「勉強して、予科練へ行って、特攻隊員になる!」
いじらしいほど無垢な子供でしたよ。
今の平和は、「努力の結果」だったとは思いません。
「不作為」の結果、たまたま戦争がなかっただけ。
これからどのように舵取りをするか。
課題は大きいです。
平成に入ったら、あっという間に20年です。
太平洋戦争は、どことどこが戦ったのか、
知らない若者がいる時代です。
それが平和というものなのでしょうか。
日本は、ただ漂ってきただけではないのか・・な~んて、過激なことを考え、先日の”花筏”を思い出しました。
役人、OBが、湯水のように税金を使っているではないか。いくら納税しても、瓶に穴が開いていますヨ。
役人になっても、美味い汁が吸えないとなれば、どうなるでしょう。また過激なことを考えて、引き潮に身をゆだねる「空見ろ」です。えへ♪
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#突然コメントに書込みを致しました失礼をお許しください。
今回、どうしてもご連絡を差し上げたかったのでこのような形で
アプローチさせて頂きました。
こちらのブログにふさわしくないようでしたら、ご削除ください。
激動の中は子供だったが親達の苦しみは身体に染み付いています。
昭和から平成に変わるときは特別の思いがあります。
苦しみぬいた父親が病院のベッドの中で昭和天皇と一緒に生死をさまよっていました。
父の方が半年くらい後でしたが、、、
池田内閣の「所得倍増計画」などがあって、日本は「総中流化」に向かった進んできましたね。
徐々によくなってきたのですが、長期政権の弊害である一部の癒着も病巣が大きくなってきたのではないでしょうか。
その病巣を内在させながらも、橋本内閣や小泉内閣では、「改革」の声を上げた。
だから国民が自民党政権を応援したのでしょうが、しかし、中味となるとスカスカでした。
それどころか、規制緩和策によって、格差社会が進展し始めた。
それ以来の漂流です。
内在する癒着を、現政権が自己改革できるか。
政権交代でしか癒着摘出はできないのか。
選択を迫られているように思いますね。
私は苦労を重ねた「昭和人」でした。
親たちはもっとひどかった。
私たちの親は、可哀想な世代だったとおもいます。
7~8歳年上くらいの兄・姉年代もたいへんだったと思います。
その年代が復興の糸口をつけてくれ、私たちが従って行ったのでした。
それが「昭和」でしたね。
「後期高齢者医療制度」の必要性は、感覚的には分かるのです。
しかし官僚は、「知らしむべからずよらしむべし」で進めようとしております。
必要なことを、理をわけて説明していない。
ついて来いとだけ言っている。
癒着でガタガタにした官僚制度に、黙ってついていくだけの信頼は持っておりません。
廃材で掘っ立て小屋を建てて住んでいました。
居住環境は最悪なので、子供たちは外に集まって、話をすつことが
唯一の娯楽でした。
私は一番小さい方でしたから、聞き役です。話はすべて
空襲と集団疎開の苦労話です。
みんな冗談まじり、自慢まじりで活き活きとして話していた
ことを覚えています。 子供なりに命が助かった喜びをかみしめて
いたのだと思います。 今考えるとですが…。