過日、後輩のK君とY君に会った。会ったということは呑んだということだ。
もちろん、この頃の私は、あまり呑めない。女性がいなければなおさらだ。
後輩たちは大いに呑んだ。呑んだ勢いで、だいぶ叱られた。
「以前の先輩は、もっと広く、しかも大きくものを見ていたじゃありませんか。この頃は、小さく、しかも偏っていますよ!」
かいつまんで言えば、そのような論旨だった。
「なるほどなぁ、そんな見方もできるかもしれないな」
そのように思えることもあった。年齢的な限界や体力的な問題で、逃げていたことがなかったと言えば嘘になる。言い方を変えれば、周囲に甘えていたのだ。
実のところ、そのあたりが非常に難しい。逃げずに対処し、突っ張り切れればいいのだが、脆く砕けてしまう恐れもありそうなのだ。
体力や気力が衰えると、選択を迫られることが多くなる。何かを捨て、何かを拾う。
そのとき、何を捨て、何を拾うかが、とても難しい。
後輩に言われた「偏り」とは、取捨選択の判断基準を問われたのだろうと思う。
往々にして、誰でも安易に堕することになってしまいがちだ。
困難だが必要なこともあれば、あまり困難ではないが、必要性が薄いこともある。
一考すべきことかもしれない。
ただ、75歳の体力的な苦悩は、75歳にならなければ分からない。
後輩たちの私に対する気持ちは痛いほど分かる。
しかし、若い彼らには、年老いた私の焦りを分かってくれるだろうか。
別館として、写真俳句ブログの「ひよどり草紙」を開いてます。
ご覧いただけると嬉しいです。
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ひよどりさんは素晴らしい後輩がいて羨ましいです。
なかなか後輩が忠告をしてくれる人はいません。
その年齢に達してみなければ、(体験してみなければ)分らないことも多々あると思いますが、昔の元気の姿が焼きついており、そのギャップで後輩が口にされたのと思います。
Yさんとは以前のブログでひよどりさんの葬儀委員長をすると申し出した方ですね?
よく、「若い奴の気持ちが分からない」と言いますが、年寄りからすれば、一度通った道。
年寄りの道は別問題です。若い人は経験していませんからねえ。
そこが難しい点です。
つまり、自分の価値観を基準にして、他人を推し量ると、ちょっと危険ですね。
この年になって分かることも多々あります。
その年にならないと分からないこともあります。
でも、人間って本質的にはあまり変わらないのでは?
若い人に理解を求めても無理だと思います。寂しいけれどその歳にならなければ分からないことばかりではないでしょうか。
気力だけでは駄目なことを、しっかり知らしめられました。
これは現実です。
しっかり受け止めてこそ、責任を果たせるのであろうと思ったしだいです。
10歳若いと、理解出来ないところがありそうです。
仕方がないことですね。
必要以上に老けたりせずに、長持ちするように生きたいとおもいます。
若者には見えない素晴らしいものが観えているはずですよね。
私は自分を欲深な人間だと思っています。
できるだけ捨てたくない。
だから従来は、今までのもののすべてを捨てずに生きたいと思っておりました。
しかし、そんなワケには行かないようです。
何かを捨てなければ、すべてを処理しきれません。
体力を含めた能力の問題が生じます。
だから現実的には、捨てざるを得ません。
一方では、捨てるだけでは満足できない私がおります。
何かを拾うことで、バランスをとりたいようです。
その取捨選択が難しく、誤解も受けやすいように思っております。
二度ない人生ですから、誤解を避けながらも、より充実した余生を考えたいと、今も模索をしております。