ときどき「生きる」ことの意味を考えたりする。
なぜ生きているのだろうか?
戦争中は軍国少年だった。特攻隊員として、敵艦にぶつかることを夢見ていた。生きることは、戦争で死ぬためであった。
戦争に敗けた。
何のために生きるのか、何のために勉強するのか、かなり漠然となってしまった。
社会人になった。
食べるために働いた。遊ぶためでもあった。
結婚をした。子供が生まれた。
「家庭のため」や「子供のため」という意識が強く働いた。当然のことながら、「会社のため」という意識もあった。「国の再建のため」という動機も、十分にあったように思う。
組織の中で、責任が重くなるにつれ、「会社のため」を強く意識するようになった。
バブルが崩壊した。さまざまな価値観の転換があった。市場原理主義が叫ばれる世の中となって行った。
「他人くたばれ、我繁盛!」が横行した。あらゆる面において、モラルの崩壊が見られた。
やがてリタイアする年頃になった。世界的な規模で、不況の風が吹き荒れた。
今も私は生きている。
「何のために生きているのか?」
そんな問いかけがあったら、どのように答えるのだろうか。
「死なないために生きている」と、答えるかもしれない。
私の生死は、「神」や「み仏」や「天」のご意志が決めて下さっている。
その「ご意志」に従い、生き続けなければならないのだ。
妻や子や孫やさまざまな人たちにとって、私の存在が真に必要なのであれば、「ご意志」は私の死を認めてくださらないはずだ。
その場合、私は力の限りを尽くして、生きて行かなければならない。
妙な笑い草だなァ。
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