私は「ふるさと」が好きだ。
それも、「故郷(ふるさと)」ではなく「ふるさと」であるところが、微妙なのである。
「ふるさと」を辞書で引くと、おおかたは、「古里」、「故里」、「故郷」などと書いてあり、「その人が生まれ育った土地」となっている。
「ふるさと」が好きな私の心の中に、高野辰之が作詞した「故郷(ふるさと)」が静かに住みついている。しかも長い間住んでいて、微動だにしない。
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」のあの歌だ。
歌うたびに、今でも涙が出てくる。とくに3番は歌えない。涙で声が出なくなるのだから、始末に負えない。
つまり、本来私が好きなのは「ふるさと」なのだが、高野辰之の「故郷」に牛耳られているので、今日のブログは、「故郷」で書き進めたい。
私は故郷が好きだ。
しかしその故郷は、子供のころのあの故郷ではなくなってしまった。工場誘致やら区画整理やらが行われて、昔日の姿はほとんど失われてしまった。
それでも私は、故郷が好きだ。両親の墓があり、兄弟たちが住んでいることも好きな要因だが、それだけではない。住んで育った私の歴史が、そこには今も残っている。
子供だったその頃、太平洋戦争は末期だった。
子供心には知るすべもなかったが、今思えば、最後の悪あがきの最中だったのだ。
当然のことながら、私は、れっきした軍国少年であった。
「撃ちてし止まむ」、「鬼畜米英」、「本土決戦」、「一億総玉砕」などと、口を揃えて叫んでいた。
軍人になって、「天皇陛下」のために死のうと思っていた。死ぬことに対し、疑いを抱いていなかった。そのような教育を受けていたし、そんな「空気」が、周囲に充満していたのだと思う。
一生懸命に勉強するのは、「兵隊さん」になるためであった。「兵隊さん」になって、「天皇陛下」のために死のうと思っていたのだ。
そのように思っていた私に対し、両親がどう感じていたかは知らない。肝腎なことだったのに、両親の心の内を聞いていなかった。もはや聞くすべはない。
その後しみじみと思い返してみて、「天皇陛下のため」と思っていたかどうか、定かではない。
確かに、「天皇陛下のため」とは言っていた。しかし心の奥底では、「母」のためであり、「父」のためであり、幼い「兄弟たち」のために死のうと思っていたのではなかったろうか。
両親や兄弟や、馴れ親しんだ故郷のために、「死」を意識していたのではなかったのか。
いつころからか、私はそのように思い直していた。その故郷の光景には、祖父母も、友達も、鮒も泥鰌もいる。
木造造りの古い校舎、屋根が剥げ落ちそうな鎮守様、時には荒々しかったり、また時には優しかったりした海。
それらの光景が私を育ててくれた。その光景や歴史や両親をはじめとした多くの人たちのために、「死」を意識していたのに違いない。
そのように思いたい!
時折、「愛国心」が論じられる。
私も「愛国心」は大切な心だと思う。しかし私の「愛国心」は、二重橋に対するものでも、国会議事堂に対するものでもない。
決して皇室を軽んじているつもりはない。日本という国の他の国と異なる独自の伝統は、誇りを以て護るべきと思っている。
しかし、愛する国の具体的な姿は、祖父母や父母であり、兄弟や友人たちであり、それらを育んだ光景のすべてを含んだ故郷ではなかろうか。
多くの人々には多くの故郷がある。大都会もあれば片田舎もあろう。それらはすべて、かけがえのない故郷なのだ。
国民を「市民」などといい加減に言っている考えと同じ意味で、「故郷」を使っていない。
故郷は、畢竟、「国」であり、時には死を賭して護るべきものだと思う。
こんな気持ちが、愛国心素朴派の心情だ。
声を出しては歌えない「故郷」の3番を、ひっそりと記すこととする。
私は長男だったが、職業の関係で、若いころに故郷を離れてしまった。
両親に対し、少しばかり心苦しさが残っていたが、その両親ももういない。
弟が家を守っていてくれるので、今はなんの心配もしていない。
こころざしを 果たして
いつの日にか 帰らん
山はあおき 故郷(ふるさと)
水は清き 故郷