新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

愛国心素朴派の心情

2007年09月08日 07時15分29秒 | 身辺雑記

 私は「ふるさと」が好きだ。
 それも、「故郷(ふるさと)」ではなく「ふるさと」であるところが、微妙なのである。

 「ふるさと」を辞書で引くと、おおかたは、「古里」、「故里」、「故郷」などと書いてあり、「その人が生まれ育った土地」となっている。

「ふるさと」が好きな私の心の中に、高野辰之が作詞した「故郷(ふるさと)」が静かに住みついている。しかも長い間住んでいて、微動だにしない。

「兎追いし かの山  小鮒釣りし かの川」のあの歌だ。
 歌うたびに、今でも涙が出てくる。とくに3番は歌えない。涙で声が出なくなるのだから、始末に負えない。 
 
 つまり、本来私が好きなのは「ふるさと」なのだが、高野辰之の「故郷」に牛耳られているので、今日のブログは、「故郷」で書き進めたい。

 私は故郷が好きだ。
 しかしその故郷は、子供のころのあの故郷ではなくなってしまった。工場誘致やら区画整理やらが行われて、昔日の姿はほとんど失われてしまった。
 それでも私は、故郷が好きだ。両親の墓があり、兄弟たちが住んでいることも好きな要因だが、それだけではない。住んで育った私の歴史が、そこには今も残っている。

 子供だったその頃、太平洋戦争は末期だった。
 子供心には知るすべもなかったが、今思えば、最後の悪あがきの最中だったのだ。

 当然のことながら、私は、れっきした軍国少年であった。
「撃ちてし止まむ」、「鬼畜米英」、「本土決戦」、「一億総玉砕」などと、口を揃えて叫んでいた。

 軍人になって、「天皇陛下」のために死のうと思っていた。死ぬことに対し、疑いを抱いていなかった。そのような教育を受けていたし、そんな「空気」が、周囲に充満していたのだと思う。

 一生懸命に勉強するのは、「兵隊さん」になるためであった。「兵隊さん」になって、「天皇陛下」のために死のうと思っていたのだ。
 そのように思っていた私に対し、両親がどう感じていたかは知らない。肝腎なことだったのに、両親の心の内を聞いていなかった。もはや聞くすべはない。

 その後しみじみと思い返してみて、「天皇陛下のため」と思っていたかどうか、定かではない。

 確かに、「天皇陛下のため」とは言っていた。しかし心の奥底では、「母」のためであり、「父」のためであり、幼い「兄弟たち」のために死のうと思っていたのではなかったろうか。

 両親や兄弟や、馴れ親しんだ故郷のために、「死」を意識していたのではなかったのか。
 いつころからか、私はそのように思い直していた。その故郷の光景には、祖父母も、友達も、鮒も泥鰌もいる。
 木造造りの古い校舎、屋根が剥げ落ちそうな鎮守様、時には荒々しかったり、また時には優しかったりした海。

 それらの光景が私を育ててくれた。その光景や歴史や両親をはじめとした多くの人たちのために、「死」を意識していたのに違いない。
 そのように思いたい!

 時折、「愛国心」が論じられる。
 私も「愛国心」は大切な心だと思う。しかし私の「愛国心」は、二重橋に対するものでも、国会議事堂に対するものでもない。

 決して皇室を軽んじているつもりはない。日本という国の他の国と異なる独自の伝統は、誇りを以て護るべきと思っている。

 しかし、愛する国の具体的な姿は、祖父母や父母であり、兄弟や友人たちであり、それらを育んだ光景のすべてを含んだ故郷ではなかろうか。

 多くの人々には多くの故郷がある。大都会もあれば片田舎もあろう。それらはすべて、かけがえのない故郷なのだ。

 国民を「市民」などといい加減に言っている考えと同じ意味で、「故郷」を使っていない。

 故郷は、畢竟、「国」であり、時には死を賭して護るべきものだと思う。
 こんな気持ちが、愛国心素朴派の心情だ。

 声を出しては歌えない「故郷」の3番を、ひっそりと記すこととする。

 私は長男だったが、職業の関係で、若いころに故郷を離れてしまった。
 両親に対し、少しばかり心苦しさが残っていたが、その両親ももういない。
 弟が家を守っていてくれるので、今はなんの心配もしていない。

  こころざしを  果たして

  いつの日にか  帰らん

  山はあおき  故郷(ふるさと)

  水は清き  故郷

 

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コメント (2)
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