新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

軍国少年たちの敗戦

2007年07月15日 14時10分38秒 | 身辺雑記

 台風4号は東に逸れ始めており、関東地方が直撃される危険性は薄らいできtた。直撃の被害にあった方々には大変申し訳ないが、ほっとした感じだ。
 
参院選は12日に公示され、7月29日投票で走り出した。この雨の中、暑い舌戦が繰り広げられている。
 テレビや新聞を初めとするマスメデイアも、躍起になって選挙を取り上げている。梅雨の中の戦いだ。

 かつて軍国少年だった私にとって、梅雨後半から夏にかけては、特別の季節だ。太平洋戦争の終戦は8月15日だが、私にとっては、梅雨後期のこの季節にこそ、消しがたい敗戦の記憶がある。日立市の艦砲射撃で逃げ惑った夜と、その2日後に襲われた我が町の焼夷弾空襲などだ。中国や南方の激戦地を初め、沖縄戦争、広島、長崎の原爆投下、大都市の無差別空襲など悲惨な状況は数多くあった。
 私の体験などはそれらの惨禍に比べるべくもない。しかし田舎町の軍国少年にとって、梅雨後半の艦砲射撃と焼夷弾空襲が、敗戦を具体的に物語る記憶なのだ。そこには、元気だった両親と幼かった弟妹、近所のおじちゃんやおばちゃんたち、木造の古い国民学校、くねくね流れていた小川、雑草が繁茂していた小径などの光景があった。
 日立市がアメリカ海軍の艦砲射撃を受けたのは、昭和20年7月17日。敵の標的が30キロも離れていたのに、それとも知らず、私たちは激しい雨の中、山のトンネルに逃げ込んだ。閃光と発射音が、私たちを追い立てたのだ。
 その夜以降、警戒警報が鳴ればトンネルへ走った。いつの間にか、トンネル内に自分たちの定位置を決めていた。言わば縄張りだ。
 7月19日の夜、ラジオが「東部軍管区情報」の空襲警報発令を伝えた。通常は警戒警報が発令され、その後空襲警報に変わるのだが、その夜は、いきなり空襲警報が発令された。アメリカのB29爆撃機多数が、鹿島灘より侵入して北上し、福島県へ向かったとの内容が報じられた。その後B29の動きにつれ、空襲警報が警戒警報に変わって行った。
 しかし翌未明、トンネル内で空襲警報発令のサイレンを聞いた時には、B29が上空に姿を見せていた。群れをなした黒い巨大な鳥が、首を海の方に向け、山すれすれに飛んでいた。妹を背負った私は、トンネルの出口付近に立ってこわごわ見ていたことを、今でも鮮明に覚えている。
 その頃すでに、町は火の海だったのだ。様子を見てきた父の話によれば、わが家も燃えているとのことであった。トンネル出口から見る町の空は、赤く染まっていた。少し歩けばもっと様子を知ることが出来たのだが、そんな気持ちにもなれず、トンネル内で夜明けを待っていた。両親も諦めきっていたようだ。
 次の朝、おおよその状況が判明した。町の中心部は焼失していた。幸いわが家は、小川によって遮られて延焼を免れた。小川の向こう側は、ほとんど焼けてしまっていた。しかし国民学校だけは、消防団と先生たちの活躍によって、焼けずに残っていた。
 わが家には、にわかに同居人が増えた。時計屋のSさん親子3人と、雑貨屋のNさん一家5人が、私たちと一緒に住むことになったのだ。
 3間しかない狭い家だったが、八畳間にNさん一家、四畳半にSさん一家、私たちは六畳間で寝起きをした。窮屈な共同生活だった。しかし子供だった私の目に、諍いは見えなかった。今にして思えば、大人たちの知恵と思いやりと、大変な努力があったのではなかったろうか。
 そんな共同生活は、戦争が終わり、SさんやNさんたちがバラックを建てて商売に戻るまで続いた。
 8月15日は、朝から暑かった。昼ごろ、天皇陛下の大事なお話が放送されるということで、共同生活者の全員が、薄汚れたB24型ラジオの前で正座した。
 大人たちはみな泣いた。状況が分からないながら、子供たちもつられて泣いた。泣きながら、戦争に敗けたことが分かり始めた。
 それまでの私は、軍人になることのみが目標であった。父は、「よく勉強し、偉い軍人になれ!」と言っていた。その点について、母がどのように言った」いたのか、まったく記憶にない。
 そのころから、軍国少年の戦後が始まった。

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