英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

貴乃花と協会幹部は冷静に   白鵬も言葉を選んで発言を

2017年12月01日 14時12分43秒 | スポーツ
「貴乃花親方の生き方はあっぱれだとは思うが、孤高になっては何も前には進まない。自滅するだけだ」。私は11月24日のブログで貴乃花親方の行動について、好意的な書き方をした。というより、できるだけ公平に書こうと努力した。また横綱白鵬についても、彼がモンゴル人だということを考慮して叱責すべきだと記した。
 現在も、相撲協会を巡る貴乃花親方の改革の精神は貴いと思う気持ちは変わらない。ただ信念に忠実に動くあまり、組織の一員であることを忘れていないだろうか。また千秋楽での白鵬のインタビューをめぐり、私は彼を擁護した。彼が外国人だからだ。しかし白鵬が八角理事長の講話の席で「冬巡業に貴乃花親方が出るなら、私は参加しない」との報道がある。それは白鵬が外国人であっても言ってはいけない言葉だと思う。
 長いものに巻かれろとの世の中の風潮がある中で、貴乃花の孤高の信念は見上げたものだとは思うが、横綱日馬冨士の暴行による弟子の貴の岩の傷害を鳥取県警に被害届を出しても、相撲協会にこのことを報告しなかったことは理解できない。批判されても仕方がない。貴乃花親方は理事と地方巡業部長だからだ。大相撲協会という組織の一員である。
 白鵬も「貴乃花親方が地方巡業に参加するなら行かない」と言ってはいけなかった。たとえ横綱でも協会のガバナンスを考えれば言ってはいけなかった。「考慮してほしい」とまでは言えたとしても「参加しない」では、だだっ子のようだ。白鵬が外国人だから許されるという問題ではない。モンゴル社会でも批判されるだろう。
 白鵬の「不規則」発言に対して、相撲協会の八角理事長は毅然とした態度を示さず、力士会などで話し合った上で提案するのがルールと注意したという。これは相撲協会のガバナンスが問われる。また、大相撲九州場所の11日目の11月22日、横綱・白鵬が嘉風に敗れた後、土俵下で手を挙げ、”待った”をかけていたと自ら”物言い”をつけたことも反省してほしい。
 確かに白鵬の窓から見れば、「待った」をかけたのだろう。スポーツでは抗議という形で、白鵬の行動が成立かもしれない。ただ、相撲はスポーツ以外の要素がある。それは神事や品格だ。私にも「神事と品格」の定義が明確には分からない。それは曖昧な言葉だが、相撲につきまとう伝統だ。また日本人の潔さを体現するものだ。外国人である白鵬には理解し難いことは分かるが、相撲を取り続ける限り理解する努力をすべきだ。
 日馬冨士の暴力事件は、彼の引退で幕引きにならず、いまや大相撲協会のガバナンスや協会内部の言い争い、ひいては権力争いにまで発展してきた観がある。この事件は、当初考えもしない方向へと進んでいるようだ。
 11月30日に開かれた大相撲協会の定例理事会では、八角理事長ら執行部と貴乃花親方の対立がヒートアップ。両者の感情のもつれは引き返せないところまで来ている。
 八角理事長の正面の席に陣取った貴乃花親方が「警察の捜査に支障があってはならない」と主張して反論すると、一部の出席者が「それなら警察に聞いてみよう」と言い、暴行問題を捜査中の鳥取県警にその場で電話するという異例の展開になったという。このまま決裂か、とも思われたが、外部理事の一人で元名古屋高検検事長の高野利雄氏が「心情はわかるが、理事、親方として説明する責務があるはず」などと説得し、貴乃花親方も「警察の捜査が終われば協力します」と、最終的には折れたという。AERAはこう伝えている。
 会議の席上、「警察に電話して真偽を聞こう」などと言うのは理解に苦しむ。もはや親方衆だけでは解決できないのだろうか。それは大相撲協会のガバナンスの欠如を意味している。この混乱と対立が続けば、いずれ相撲ファンの心が相撲から離れていくだろう。それは日馬冨士暴力事件に端を発した相撲崩壊の始まりになる。そうならない前に、貴乃花親方や協会幹部が冷静に、道理をわきまえて問題を解決してほしい。貴乃花親方の信念や生き方が、相撲協会の幹部と協力することで崩れるわけではない。貴乃花は十分に考えてほしいと願う。

「社会」を壊す新自由主義    「社会主義崩壊後の世界」を読む

2017年12月01日 11時25分51秒 | 時事問題と歴史
 全体主義体制の旧ソ連社会主義国家が1991年に崩壊し、よき時代を迎えると思ったら、新自由主義という、むき出しの資本主義が世界を席巻し、その結果、人間をつなぐ社会の崩壊を促しているように見える。
 ロシア革命100周年を念頭に、京都大学の佐伯啓思・名誉教授は、12月1日付け朝日新聞でこう述べる。
 佐伯氏は「日本ではずいぶん長い間、社会主義に対する幻想があった」と語り、社会民主主義の出番にはならなかったと説く。そして世界中が資本主義のグローバル市場に覆われ、「アメリカ主導のIT革命や投機的な金融市場の展開によって、まさしく資本主義が凱旋したのだ。・・・資本の増殖を求めるグローバルな市場競争というメカニズムがわれわれの生を圧迫している。・・・別種の全体主義ではないか」と強調する。 
 「この(現在の)自由社会は、われわれを過剰なまでの競争に駆り立て、過剰なまでの情報の中に投げ込み、メディアやSNSを通じて、われわれは他人のスキャンダルを暴き立て、気にくわない者を誹謗(ひぼう)し、少しの失態を侵した者の責任を追及する。実に不寛容な相互監視社会へとなだれ込んでいる。これも一種の全体主義と言わねばならない」
 この”全体主義”が人間社会を破壊している。本来の人間社会は「今日のSNSのようなバーチャルな、もしくは瞬時的でどこか虚構めいたつながりではない。相互に信頼できる人々の間に生まれるつながりである」と説明する。
 佐伯先生の話は説得力があると思う。自殺願望の若者が、27歳の男に殺された事件も、今日の人間社会を投影している。かつて日本は地域社会のコミュニティーがしっかりしていた。家族、地域、学校、組織、企業、サークルなどが一つの社交の場となり、話し合いの場となり、人間相互の理解とつながりの場となっていた。だから佐伯先生は「社会は一定の倫理的価値を保ちえたのである」と語る。
 ソビエト型独裁社会主義が崩壊し、それに代わって新自由主義という新しい全体国家が世界を覆っている。マルクス・レーニン主義に基づいた中国も、われわれ団塊の世代が若い頃見た社会主義社会という外套を脱ぎ捨て、いまや新自由主義の旗をたかく掲げている。資本主義の先鋒を担っている。
 佐伯先生が述べる「『社会』主義(ソシエタリズム)」が崩壊し、家族や地域コミュニティーはずたずたに壊されてしまった。古代ギリシャの哲人アリストテレスは「人間は社会的動物である」と説いた。私は若い頃、この格言を読み感銘したのを覚えている。
 人間は相互につながらなければ生きてはいけない。神奈川県で殺された自殺願望の若者も自殺したかったのではなく、温かい、人間相互が信頼する社会に住みたかったのだと思う。
 今日のいじめ問題や過剰なまでの競争社会、そして敗者復活がなく、敗者を徹底的にたたき、勝者を必要以上に持ち上げる社会。それは新自由主義に基づく原始的資本主義が生み出したのだろう。人間のつながりを希薄にするIT革命が原因だろう。
 佐伯先生は「それを立て直すのは難しい。しかし、われわれはの日常生活が自然で多様な『人間交際』によって成り立っていることを思い起こせば、『社会』の復権にさほど悲観的になる必要もないのかもしれない」と結論づけている。私も心からそう願う。いかに物質文明が発展しても、その基となる人間社会が機械であっては何もならない。