英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

千葉大学の取り消し検討に思う   朝霞の中学生事件と寺内容疑者

2016年03月29日 10時44分55秒 | 時事問題
 先日、後輩に誘われて、埼玉県・蓮田市の清龍酒造を見学した。その後、安い値段で懐石昼食を食べ、いろいろなブレンド酒を飲んだ。見知らぬ人同士が和気あいあいと話しながら、おいしい食べ物を食するのはたのしい。時々開かれるこの催しは人気があり、予約するのが大変だという。楽しい会だった。
 北関東にも春が訪れようとしている。桜のつぼみが膨らみ始めている。枝の一部から桜の花が顔をのぞかせている場所もある。
 桜の花が咲き始める時に、埼玉県朝霞の女子生徒事件が報道された。女子中学生が監禁状態で一室に閉じ込められた。監禁した寺内華風(かぶ)容疑者の外出した隙をついて脱出に成功。東中野駅から公衆電話で両親と警察に助けを求め、警察が無事保護した。寺内容疑者から監禁されて2年がたっていた。
 寺内容疑者は「自殺を試みた」が、それができず血だらけになって警察に確保され入院。退院ししだい逮捕される。
 女子中学生に両親は「がんばったね。お帰り」(3月29日付朝日新聞39面)と声をかけ、「やっと会えたね」と言った。彼女の想像を絶する2年間の困苦に心から同情する。この2年間が彼女の精神にどんな影響を及ぼすのか、心配だ。人生での2年間の遅れは、これからの長い人生で取り戻せるだろうが、精神的恐怖と苦痛は生涯忘れることはないだろう。ご両親の温かい心と周囲の人々の気配りで一日も早く立ち直ってほしいと願う。
 それにしても容疑者が千葉大学の卒業生だというのには驚いた。筆者のような団塊の世代にとり、千葉大学は「国立一期」であり誰でもが入学できる大学ではないとのイメージが定着している。
 また、なぜ拉致して監禁したのかも常識的な人間には到底理解できない。どうもオタクのようだ。「パソコンや無線機、航空機が大好きで、会話はほとんどそればかりだった」と中学、高校と同級生だった男性は朝日新聞記者に話している。
 寺内容疑者のような人物は20世紀には決して出てこなかったと思う。20世紀末の通信革命の申し子だろう。話し相手が目に見えるところにいながら、チャットやラインで話をする若者が増えているという。70歳近くになった筆者には驚き以外の何ものでもない。
 確かに会話は成立するが、それだけでは人間の感情の機微を理解できない。他人の気持ちを理解できない。他人の言葉に傷つけられ、精神的に成長することもない。こんな時代の変化が寺内容疑者のような、どこか人間的に何かを欠いた人物を生み出すのかもしれない。
 寺内容疑者は就職先の内定を取り消されたという。筆者はそこまでは理解できるが、朝日新聞によれば、千葉大学の渡辺誠理事が謝罪し、「卒業の取り消しを検討する」とも述べた。
 渡辺氏の発言には理解できない。寺内容疑者がいかに反社会的な人物であろうと、彼は「中ぐらいの成績」で卒業したのだ。それは彼の努力の結果であり、取り消すことはできない。
 どうもわれわれは公私の感情を混同する傾向が強い。国民性が出ている。その場の社会の雰囲気に流され、事実は事実として認めない日本人がいる。千葉大学の理事は寺内容疑者を千葉大学の卒業名簿から取り除き、大学の名誉を守りたい。世間体を気にしたと疑われても抗弁できないだろう。
 筆者は寺内容疑者が大学を卒業したのは「事実」であり、たとへ彼が女子中学生を監禁しながら大学の単位を取って卒業したとしても、カンニングもせず勉強して卒業したのだから、それは卒業だ。もちろん道義的にはたいへん問題になるが、それをもって卒業を取り消すのはいかがなものであろうか。リンチと同じ私的制裁だと言われても反駁できない。その境界線は明確にすべきだと思う。
 彼は社会的に制裁され、法で裁かれる。それは彼の犯罪行為に対する当然の報いである。感情に流されるべきではない。
 千葉大学の理事の話を読んで、ビートたけし氏(本名は北野武)のことが思い出された。明治大学工学部に入学したが、大学になじめず、大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも拘らず、結局通学せずに除籍された。のち、2004年9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞した。
 北野氏が有名になり、「特別功労賞」を受賞したところまでは理解できるが、「特別」とはいえ、明治大学は彼を卒業させてしまった。これは問題である。真面目に卒業した学生を愚弄する行為だと思う。英国の大学では「名誉学位」(卒業生ではない)を与えても、「特別」に卒業させることは決してない。筆者はこの行動に納得いかなかったことを思い出す。今回の寺内容疑者のケースと同じだ。
 千葉大学が寺内容疑者の犯罪は犯罪として断罪し、卒業は卒業として認めるべきだと思う。大学の名誉などどうでもよいではないか。一人や二人ぐらいはどの大学にも犯罪者予備軍や変わり種はいるだろう。千葉大学の学長は頭を冷やすべきだ。
 かつてチャーチルが率いた戦時(第2次世界大戦)挙国一致連立内閣に労働党の重鎮アーネスト・べビンという政治家がいた。かれは貧乏な家に生まれ、小学校を卒業後、11歳で肉体労働を始め、トラック運転手など、いろいろな職業を経験して労働運動に参加。労働党内で頭角を現し、チャーチル内閣の労働大臣や、戦後初の労働党内閣(アトリー内閣)の外相を務めた。
 英国の歴史家アラン・ルイス・チャールズ・ブロックが「19世紀初めに出たカースルレーから始まる伝統的な英国外交の最後の名外相だ」と称賛するまでの名政治家になった。
 20世紀最大の名宰相の一人、ウィンストン・チャーチルはべビンの手腕をひじょうに買い、党派を超えて深いきずなで結ばれていた。彼らの共通点は精神力が強く、ストレートに大衆に自説を説くことだった。ベビンはチャーチルと同様、自らの信念に忠実で、チャーチルに堂々と反対意見を述べることをいとわなかった。チャーチルは、この姿勢に深い尊敬の念を抱いていた。チャーチルは「イエス・マン」を信頼していなかった。べビンのような自説を理路整然と述べる政治家と議論することを好んだ。
 何よりもべビンは名誉や地位に重きを置かなかった。事実がいかに自分に不利な立場をつくろうが、それが事実なら尊重した。
 千葉大学や明治大学当局者の、このような感情的な行為は、一面から見ると、われわれ日本人の良いところかもしれないが、それが客観的な言行を必要としているところでは悪害以外の何ものでもない。一言で言えば、フェアでないということだ。

写真は寺内容疑者