事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「人間臨終図巻(上・下)」山田風太郎著

2007-10-14 | 本と雑誌

人間たちの死は、「臨終図巻」の頁を順次に閉じて、永遠に封印してゆくのに似ている
-山田風太郎

Yamada  私の書棚は自分でも呆れるくらい乱雑な状態にあるが、そんな中、他の本を蹴散らして燦然と輝いているのが函入りハードカバーの縁起でもない題名のこの本だ。上下巻各二千五百円、二十代の金の無かった頃に、おそらくは清水の舞台から飛び降りるようなつもりで買った本なのである。それほどに、私にとって山田風太郎は特別な存在だったし、十数年間文庫化されなかったのだから、早い時期にこの本に出会えて幸運ではあった。

題名のとおり、これは死の本である。

 ……県教組の監査に行って来た。私ほど会計に弱い事務職員に監査など出来るはずもなく、副委員長と酒田バナシをしに行ったようなもの。上期の監査では、同じ監査委員が十数キロ痩せているのにたまげたものだったが、今度はもうひとりが思い切り絞ってきた。なんなのだ。もちろん彼らは痩せざるをえなかったのだが、一つ二つ年下の連中がひたすら体に気をつけている現状は、少なからず私を考え込ませた。今までは予想も実感もしなかった自分の死が、体の中に巣食っているという怖れを、少しは持つようになったというか……(ダイエット食に挑む彼らを尻目に、一人とんかつ定食をゆうゆうと食ってみせる根性の悪さは治りはしないのだが)。

 「人間臨終図巻」は、古今東西の有名人九百数十名の文字通り死に様を、山田風太郎流に醒めたタッチで叙述した大作だ。15歳で死んだ八百屋お七から、121歳の泉重千代まで、死んだ年齢順という構成は気がきいている。年齢にしたがって読むにつれ、死に方の変遷に気づかされると同時に(若いほど、戦死、事故死、死刑の比率が高いのはもちろんだ)、自分がこいつの死んだ歳までとりあえず生きてきたんだな、という感慨が持てるのである。若い頃にはこんな読み方があるとは気づかなかった。ちなみに、41才(当時のわたしの年令)で死んだ連中は……

Okuboマゼラン(フィリピンの原住民に刺殺される)
今川義元(桶狭間の戦いで織田信長に敗北)
小栗上野介(斬首)
河井継之助(官軍に敗北して戦死)
マタ・ハリ(銃殺刑)
カフカ(結核)
石田吉蔵(阿部定により絞殺、死後局部を⇒ご存知のとおり)
アベベ(交通事故からは復活したが、心臓麻痺)
大久保清(絞首刑)

……このように何の脈絡もない人間たちが、41才で死んだという事実だけで括られる。見事だ。また、山田が医師であることと無縁ではないと思うが、思い入れをほとんど感じさせない筆致は、むしろその人間の人生を浮き彫りにする。

Andersen 例えばアンデルセン。
デンマークの貧しい靴屋で二十二才の父と、無教養な洗濯女で四十近い母との間に生まれたハンス・クリスチャン・アンデルセンは、“デンマークのオランウータン”と綽名のあったくらいの醜男で、そのくせきわめて女性的な性格の持ち主で、一生ついに女性から恋愛されることなく独身で終った。-実は彼は男色の大家であったといわれる。(略)この醜い男色の大家は、自分のみじめな少年、青春時代をさえ「童話」化した。(略)葬儀は国葬をもって行われ、王侯から乞食、老人から子供まで参列し、広大な聖母教会には弔問者の十分の一もはいれなかったという。コペンハーゲンのアシスタンス墓地の墓には、いまも花が絶えない。

 ドライであるが故に、彼の葛藤が伝わってくるかのようだ。「みにくいアヒルの子」が違った色彩を帯びて見えてくるではないか。

Modi1_jan19mae  例えばモディリアニ
 イタリア生まれの美貌のモディリアニは、二十二歳のときから、パリのモンマルトルに住んで絵をかきつづけたが、友人の詩人ズボロウスキー一人を除いては、誰も認める者はなかった。絵は只同然の値にしか売れなかった。貧窮の中に、彼は肺を病んだ。彼の生活はただ酒をのむことと、血を吐くことと、絵をかくことだけだった。(略)慈善病院でモディリアニは高熱を発し、大あばれにあばれ、一晩中詩を朗吟し、「なつかしいイタリア」とつぶやきながら、その翌日の夕方に死んだ。
 彼の子を懐胎していた愛人は、彼の死を知って、窓から飛び下りて自殺した。彼女の髪はひとふさ切りとられて、モディリアニの屍体の胸におかれた。
 モディリアニは、死んだとたんに、彼が天才であったことを人々に気づかせた。彼の棺にはたくさんの画家や作家や女たちがつづいた。警官さえも敬礼した。それを見て、三十九歳のピカソはつぶやいた。
「見たまえ、かたきはとれたよ」

……画家はもう、ほとんどがこの状態で死んでいる。音楽家もそう。因果な商売だ。昔は結核と梅毒が死病であったことが知れる。現代のエイズがそれに該当するだろうか。

 上下巻を読み終えると、何やら粛然とした気分になる。たとえどんな偉人であろうとも、死ぬ時は孤独な病人であることが多く、自分の業績に充足して安楽な死を迎えることがいかに稀有な例であるかを思い知らされる。まして凡人においては……果たして私の死は、その時家族は、墓は、老残をさらすのではないか、痛い死に方はいやだし、苦しさが永続する死に方はもっといやだし……心配や後悔が死に際に襲ってくることは今から鉄板に予想できる。

Katsu_kaisyuu 死にたくない死にたくない、と思っても、おそらく見栄や(ひょっとしたら)苦痛のために、ただ涙を流して終るのかもしれない。「コレデオシマイ」と気が遠くなるような名言を残して死んだ勝海舟の偉大さがよくわかる。そんな、死への予習としての教材にもなる図巻。必読でしょう。ただひとつ残念なのは、このタッチで「山田風太郎の臨終」を読むことだけはかなわないこと。「あと千回の晩飯」(朝日文庫)を連載していた彼は、もう二千回ぐらい晩飯を食べているはずだが、パーキンソン病が進行している彼に残された時間はもうほとんどない。せめて彼が生きているうちに、膨大な著作を読み進めることにしよう。

※山田風太郎は、当然忍法帖モノが有名だが(「甲賀忍法帖」「魔界転生」)、明治モノ(「警視庁草紙」「ラスプーチンが来た」)もお薦めしたい。一番は、このテのエッセイの冷たさなのだが。若いモンの間で再ブームになるのも、こんな御時世だからよくわかる。「司馬遼太郎と読者数が逆転していたら、日本はよほどマシな国になっていただろうに」という山田風太郎論に、私も全面的に賛成。そして彼もついに亡くなった。合掌

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