本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ずっと持ち続けた問題

2018-06-05 20:51:00 | 十地経

なんだか不思議な気がするのですが

高校生の頃に疑問に思ったことが

いまだに後を引いているのです。

 

祖父が護摩を焚きお参りする

そのころ、

ちょっと仏教のことをかじりはじめ

お釈迦さまは護摩なぞ

焚いていなかった。

護摩を焚いてお参りする

一体どういうことだろう??

 

毎晩のように祖父と口論になり

周りのものが特に祖母にとっては

やめて欲しいと願っていました。

ただ、

自分としては口論のつもりはなく

教えてほしいという

ことがあったのですが

折り合いがつかずお互い喧嘩腰に

今思えば

祖父と真剣勝負ができたことは

有難いことでした。

祖父も真剣に答えてくれました。

 

その口論は

高校を卒業して京都に行くまで

続きました。

京都に行ったその年に

祖父は亡くなりました。

 

京都での三浦先生との出会い

そして、

東寺でおこなわれていた

「十地経の講義」

その時初めて

安田先生の話を聞いたのです。

ほぼ分からずながらも

なにかしら心に響いてくる言葉

半分居眠りしながらも

三浦先生の真剣そのものの姿勢に

厳しさを感じながら

会座にはほとんど出席していました。

 

今また、

じっくりと

『十地経講義』を読みかえし

書き写しという

マクロ的に見たりミクロ的に

踏み込んだりしながら

行きつ戻りつしながら

読んで行けるという

有り難い時間を頂いています。

 

そのような中、

一つの問題が解決というか

それしかないという言葉に

出会いました。

少しだけ紹介します。

 

僕らの経験もですね、

人の前に誇るような経験ありゃせん

ですけども、僕らにも。

しかし、やっぱり学生時代のね、

どういったらいいんでしょうか、

学生時代に持っとったような問題が

やっぱりね、

70になっても続いとるんですわ、

僕の場合だと。

だんだんえらい問題が出てきた

というんじゃない。

やっぱり、学生時代に、

何か、問題が、

一つ触れた、いろいろな問題

それが大事なんじゃないかと思う

ですね。

そいつをね、

浅いからといって卑下しちゃいかん

と思うんです。

浅い深いは問題じゃないね。

その学生にとってはですね、

それしかないんだから。

何ぼ深い問題でも

他人の問題は問題にならんわ。

何ぼ浅くても自分の問題は

大きな意味があるのですね。

問題はその問題を深めるということ

が大事なんだ、

ほったらかしにせずにですね。

それが勉強の意味なんだ。

勉強はね、

ないものを積み重ねるという

もんじゃない。

あるから、勉強になる。

何にもないときには勉強は

できんわね。

問題はあるでしょう。

その問題というものを何かね、

勉強によって、

人に教えられたり、

本を読んだりですね、

友達、そこで友達が大事なんです

それによって、

その問題を深めていくんだ。

 

ということですが、

問題を持ち続けることの大切さ

だから、

はじめは、

70にもなってまだ高校生の問題を

もっている

何という幼い自分だろうかと思って

いたんですが、

いまだに持っているということは

それはそれでよかったのでは

と思い直したのです。

 

十地経の講義は

難しい経典の言葉も続きますが

自分にとっての

身につまされる問題が

語られているのは

他では味わえない講義なのでは

と思っています。

 

 

 

 

コメント
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