本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

十地経講義の楽しさ

2018-04-09 20:26:23 | 十地経

こういう一文が出てきます。

 

「上首として余を摂取する行」

 

見ただけでは何のことやら??

ここから話が展開するのですが

 

「上首となる、これは頭となる

という意味です。

上首となるのは威張るのでもない

そこに、衆生を、

余の衆生を摂取するために上首と

なる。」

「ここに解釈があるのです。

上首とは衆生を随逐する。」

 

またここで、

「随逐」という難しい字が出てきます

 

「他の衆生が随ってくる。

随ってくる衆生の為に上首となる。

衆生に随逐、衆生が随逐

どちらにもとれるけど、

ここでは

衆生が追っかけるんでなしに

衆生を追っかける、と」

 

ここから話が横へ飛んで

西田幾多郎先生の話が出てきて、

 

「キリストの愛というのは

人間臭いということをいって

おられたですね。

キリスト教の方では、

人間が神に随逐すると

人間が神を求めていくと、

こういう形になっている。

神を追っかけていくという意味

ところが仏教の方は

それと逆であって

仏の方が衆生を追っかけていくと

流転する衆生を仏が追っかけていく

迷う衆生を仏が追うていく

そういう時に随逐ということが

生きてくるでしょう。」

 

「菩薩は衆生の世界に生れて

最後の一人が成仏するまで、

自分が救、自分の救いは後にして

一切衆生がことごとく成仏、

涅槃するまで、菩薩道を修行しよう

こういうんです。

一切衆生を救う、自分は最後に、

自分の救いはおくと、

こういう願いをたてる。」

 

「不思議なことだけども、

そういう願いをたてた菩薩を

最初に成仏させると。

一切衆生を救って、

自分は最後に救われようという

ねがいをたてると、

そういう願いがかえってですね、

願いをたてた人間を

最初に成仏させてしまうと。

こういう意味が衆生随逐にある

わけです。」

 

自分は後まわし、

他の人々を先に成仏させよう

ということで

「大鹿の物語」を思い出します。

ジャータカという中にあります

 

むかし、森が火事になった

逃げ惑う生き物たちに

「こっちへ!」

と方向を指し示し

皆を導いて逃げていきます

すると、

大きな谷に差し掛かってきます

行き止まりです

皆困ってしまい

もうこれまでか!!

ここで

大鹿は自分の身体を橋がわりに

谷の間にさしかけます。

「みな、私の体の上を乗って

向うの岸に渡りなさい!」

大鹿は必至で耐えています

「みな渡りましたか?」

最後にウサギさんが

戸惑っていると

「さあ頑張って渡りなさい」

ウサギは

「鹿さん大丈夫?」

「私は大丈夫だから渡りなさい」

皆が渡り終わるのを見届けると

大鹿は力尽きて

谷底へ落ちていきました。

 

ジャータカというお経では

この大鹿がお釈迦さまの前生の

姿であると

説いているのです。

 

このように

皆を先に、自分を後回しに

そういう志を持った大鹿が

先に仏さまになったという

話しなのです。

 

「余の衆生を摂取する」

「衆生随逐」というと

難しい言葉のようですが

この一文から、

読み取っていかれる

安田先生の講義は

原始林のようなお経を切り開き

読み砕いていかれる講義は

とても面白いものです。

 

端折って書きまして

わかりにくいかとおもいますが

読んで、書いて、また読んで

ということの繰り返しは

ますますその中にのめり込み

興味が尽きないものです。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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