忘備録の泉

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独裁者たちの最後(スターリン)

2018-08-31 09:08:01 | 読書
暴虐のかぎりを尽くしたソヴィエト連邦の独裁者スターリンは、恐怖をまき散らした代償か、長く苦しんだ後、1953年3月5日孤独に死んでいった。
遺体は赤の広場の霊廟に送られ、盛大な葬儀には、暴虐の実態を知らぬじつに多くの民衆が葬儀に参列した。

73歳になっても、スターリンは1日15~6時間仕事をしていた。
党書記長兼閣僚会議議長として、粛清の気配を常に漂わせながら、彼はソ連を強権支配していた。
あらゆることに首を突っ込み、なんでも知りたがり、膨大な報告書に目を通して筆を入れ、数え切れないほど多くの会合に出席し、声明文をまとめ、新聞記事に訂正を入れ、歴史関係の書物を書き直し、政治論文を執筆し続けた。
スターリンは妄想症で死を恐れていた。
クレムリンの廊下でさえ、彼は前後に何人もの護衛を連れて歩いた。
私的な外出の際は、車を3台出し、2台はダミーだった。
専属の料理人だけがスターリンの皿にふれることができ、瓶は栓をしたままテーブルに出された。
数人の腹心の部下たち(ベリヤやフルシチョフなど)と別荘で開く秘密幹部会では粛清計画が話されていた。

ある日の秘密会議で恐るべき粛清計画がスターリンから提案された。
それはソ連の優秀な医師団の粛清計画だった。
医師団は、アメリカが陰で糸を引く「国際ユダヤ人ロビー活動」の手先で、スターリンらの暗殺を企てているとの疑いである。
これを聞いた幹部らは内心の反対を表明できぬまま、計画を承認した。
逆らえば敵とみなされ粛清されるからである。
医師たちは逮捕され尋問を受け、首謀者とみなされた医師は銃殺された。
医師らの妻子、弟子、兄弟、従兄弟、友人らは強制収容所に送られた。

2月28日深夜、会議を終えたスターリンは、いつものように部屋に戻った。
3月1日、陽が高くなってもスターリンは部屋から出てこなかった。
周囲のものは心配したが、およびがかからなければ勝手に部屋には入れない。
部屋には食堂もあり空腹を満たすこともあるから、誰にも邪魔されず集中して仕事をしているのかもしれない。
下手をすれば自分の首が飛んでしまう恐れもある。
夜になってクレムリンから郵便物や書類が運ばれてきた。
それを届けに部屋に入った警備隊長は、床に倒れているスターリンを発見した。
「医師団陰謀事件」の最中であったから、医師を呼ぶことも誤解を招くことにつながると考えた隊長は、直属の上司に連絡した。
その上司も決断できず、最終的に医師が到着したのは倒れてから48時間後のことだった。
もはや職務に復帰することは不可能と思われたので、幹部らは後継問題に移るとともに、過去から現在に至るまでの自分たちが関与した粛清の証拠書類をすべて処分した。

1953年3月5日朝、スターリンは息を引き取った。
翌朝、スターリンの死が世界中で報じられた。
熱狂的なスターリン礼賛の声が上がり、涙にくれる何百万人もの市民が道にあふれたという。
スターリンの闇の面を知る人がまれであり、疑う人さえほとんどいなかった証拠であろう。
しかし、「赤い悪魔」スターリンの犯した多くの罪は、徐々に明らかになっていくのである。



「広告コピー秀作集」

憲法改正。

ドイツ59回、日本0回。

戦後から同じ時間が

過ぎている。

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