忘備録の泉

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日朝の歴史(2)

2017-10-26 09:56:10 | Library
日本列島の古墳時代と同じ頃の朝鮮半島は、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)という三国が割拠した三国時代だった。

古墳時代は、3世紀後半にはじまり、7世紀初めにはおわりを迎える。
このころに日本列島に住む人々や、そこに成立していた社会を、中国や朝鮮半島では「倭人」「倭」と呼んでいた。
日本の歴史では「大和朝廷」の時代だ。
この当時から日本は朝鮮半島との行き来は活発で、発掘された古墳からもその名残がよく分かる。
朝鮮半島から多様な文化をさかんに受け入れ、取捨選択し、変容させ、みずからの文化として定着をはかっていたのだろう。
朝鮮半島と日本列島を、対馬海峡や日本海、黄海、玄界灘、瀬戸内海を舞台にして、人々が往来し活発に交流を重ねていた様が目に浮かぶようだ。

朝鮮半島では、高句麗が半島南部への進出をもくろみ、これに対抗する百済や新羅は倭国と交渉の動きを強めた。
中国を統一した中国王朝(隋や唐)は朝鮮半島へ進出、新羅と同盟する。
倭国は遣隋使・遣唐使を送るなど中国王朝(隋・唐)との友好も深めていた。
唐・新羅連合軍に攻め込まれた百済は、倭国の軍事支援を求めて戦ったが(「白村江の戦い」)敗れ滅亡した。
倭国は国を失った百済人の亡命移住を受け入れ、唐や新羅による侵略に備えて九州に防人を配置し、律令制の整備など中央集権国家化を進めた。
また、8世紀初頭には国号を日本へと改めた。
668年に新羅が三国を統一するが、918年には新しく高麗(こうらい)という国が建国される。

ここまでの時代を朝鮮では、古代社会としてとらえている。
日本の「古事記」や「日本書紀」が書かれたのは8世紀初頭だが、朝鮮では「三国史記」や「三国遺事」がそれにあたる。

(つづく)


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