忘備録の泉

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高野房太郎伝(2)

2016-11-06 10:22:29 | Library
房太郎を育て上げてくれた叔父が亡くなると高野家は家運を失い没落し始める。
房太郎はかねてより考えていた渡米を決意した。
英語力を身につけながら高野家再興のために一旗揚げることを目標としての渡米であった。
1886年、房太郎は横浜港から船に乗って18日間の船旅を経てサンフランシスコへ到着する。
房太郎がアメリカにおける第一夜を過ごしたのはサンフランシスコのコスモポリタンホテルだった。
後に房太郎はこのホテルで「客引き」として働くことになるが、職工義友会、労働組合期成会結成を通じて房太郎の同志となる城常太郎との出会いのきっかけとなる記念すべきホテルであった。

格安とはいえホテル暮らしは高くつくから、次に彼が宿舎に選んだのは、在米日本人キリスト教徒の団体〈福音会〉が運営していた宿泊所だった。
福音会は、滞在費が安いだけでなく、英会話などの夜学校も経営しており、在米日本人のたまり場にもなっていた。
当時はホテルに1~2泊した後、福音会へ移るというのは、アメリカへ着いた日本人青年の定番コースとなっていたようだ。
そのほか片山潜や山崎今朝弥、赤羽一(巌穴)など、日本の社会運動史上にその名を残した人びとも、渡米直後は福音会の世話になっている。
また日本から名士が来ると歓迎会を開き、知識人が来るとこれを招いて講演会を開いていた。
講演会の弁士のなかには尾崎咢堂、島田三郎、綱島梁川、村井知至、幸徳秋水といった名を見ることができる。
さらにクリスマス祝会、天長節祝会、懇親会などには100人前後の人びとを集めるなど、福音会は長い間、在米日本人の社会的文化的活動の一拠点だった。

(つづく)