初めての町、石巻。旧北上川という川がゆっくり街を流れています。「この川はね、すぐそこにある太平洋に出るの。」
大きな川はゆっくりゆっくり流れています。岩手県という県から長い旅をして、石巻へたどり着くのです。紀子は海へあまり行ったことがありません。太平洋という海がこんなに近くにあることが不思議でした。川べりを歩くと、水の音がやさしく心に伝わってきます。水が海へとまっすぐに、ゆらゆら光を放ちながら小さな波を作って注いでいきます。カモメが浮かび、小さい魚が時々ジャンプして水の上を跳ねています。
紀子は美術館の女の子が、こんな川沿いのどこかで遊んでいる気がします。紀子は良子さんに、この女の子との出会いについて話しました。良子さんは並んで歩きながら黙って聞いてくれています。
良子さんは、次に大門崎公園という山の上にある、公園に連れて行ってくれました。小高い山に10分ほど車で向かい、途中から林の遊歩道を歩きます。道の両側には背の高い木々がたくさん立っていました。小さい白やピンク、黄色、紫の草花もニコニコと笑って迎えてくれました。こんなにたくさんの野の花を見たことがありません。虫もクルクル回っています。ずっと続く林の一本道。なんだか何が向こうで待っていてくれるのか、胸がドキドキです。紀子は草花を摘んで歩きました。木々の葉が風に揺れ、その間からキラキラ光が降ってきます。
「秋になるとね、松ぼっくりやドングリや、木の実がたくさん落ちてくるのよ。栗の実も。」 ちょっと、暑くて汗が流れます。のども渇きました。その時です。「しっ。」良子さんは、口に人差し指をあて、紀子の方をむきました。
「ほら、あそこ。動物。見える?」紀子は道の向こうを息をひそめて、見つめました。「あ、動物。小さい、かわいい動物。」
その小さい動物は、道の真ん中で一瞬立ち止まり、こちらを見ています。次の瞬間、道を横切ってスッと消えていきました。「何ていう動物?猫みたい。」「そうね。たぶん、“テン”っていう動物かな。」その動物が消えた場所まで静かに近づきましたが、もう姿はありませんでした。
「もう少しよ。」「はい。」ゆるい登り坂を、もう40分ぐらい歩いたでしょうか。「ほら、着いた。」
遊歩道の終りで、急にパッと、一面、海が目に飛び込んできました。太平洋です。きらきらとした真っ青の水。紀子は初めてこんな広い海を山の上から見下ろしました。
「うわぁ。海だ。」両手を空へ広げ、叫びます。「やったー!」
風が渡っていきます。鳥も翼いっぱいに、ゆうゆうと飛んでいきます。向こうに島が浮かび、水平線が広がっています。空もこんなに大きいなんて。
良子さんは、この山の上の、小さい公園では、高橋英吉の作品“潮音”(1939年)という彫刻を紹介してくれました。“潮音”は、漁夫がロープを肩にかけ、堂々と胸をはって、たくましい姿で立っていました。その力強さに勇気をもらえるような男らしい姿です。英吉は捕鯨船に乗って仕事をしたことがあります。辛い大変な仕事ですが、そこで、いろいろ海の男達の仕事の様子や姿をスケッチして勉強していました。だから、こんな生き生きとした漁夫の姿を彫ることができたというのです。
この“潮音”の漁夫は、英吉の生まれた家の方に体をむけ、目は海の彼方を見つめています。紀子がその方向を見ていると良子さんはまた、説明を始めました。
「英吉はここから数千キロも離れたソロモン諸島のガダルカナル島という島で死んだの。この漁夫はその方角を見つめているの。英吉は、兵士として戦って、戦争で死んだのよ。2万人近い日本人が、そこで犠牲になったんだって。英吉は、彫刻家だから鉄砲なんて持ったことないでしょ。でも戦争に連れて行かれたのよ。」
良子さんは、悲しそうです。小さい声でささやきました。
「英吉も、他の男の兵隊さんもみんな死にたくなかったって思うよ。だってお母さんやお父さん、奥さん、子供がいるんだものね。どうして別れなければならないの?戦争なんて、どうしてあるの?」
英吉はこの作品を彫っている時、好きな人がいました。「これを彫って、賞をもらったら結婚しよう。」と彼女と約束しました。会いたくてもがまんして、一生懸命、彫りました。見事にこの“潮音”は展覧会で、大きな賞をもらいました。英吉は、そして結婚したのです。さっき駅前でみた、“母子像”のお母さんです。そして赤ちゃんが産まれました。
「あの赤ちゃんのお父さんが、戦争で死んだんだね。美術館の女の子を作った人。」
「そうなの。彫ることが好だから、いっぱい彫りたかったでしょうね。どんなに悔しかったかしら。紀子ちゃんも大きくなったら夢があるでしょ。英吉も夢がたくさんあったと思うよ。いろんなものを彫るって。」
紀子は宿題の絵を描きたくない自分が恥ずかしくなりました。「この彫刻と同じものが、ガダルカナル島の公園にも立っているのよ。」「本当?」「それは、この石巻を向いているの。」
そのガダルカナル島の“潮音”には『海と空の彼方をみつめ、大漁を祈るこの雄々しい漁夫の像がソロモン諸島に永遠の平和と幸をもたらさんことを』と記されていると良子さんは教えてくれました。遠い海の向こうから、石巻を見つめている漁夫の像。英吉は、そのガダルカナル島の戦争で、生まれたばかりの子供を思い、その子のお母さんを思い、石巻を思い出したことでしょう。この海や川、空も。
「帰りたかっただろうね。」潮風を浴びながら紀子は、美術館の女の子が、この遊歩道を歩いてこないかと聞き耳を立てました。
それから、二人で石巻文化センターという所へ行きました。途中の川ではのんびり釣りをしている人がいます。ヨットも浮かんでいます。岸に寄せる波の音と頬にあたる風が、気持ちいい日です。カモメが鳴いて出迎えてくれているようです。
「ほら、そこが太平洋の入り口。」川と海が出合うところ。紀子は初めてこんな風景を見ます。静かに川の水が、海へと流れていきます。川の水が、海に出会う時ってどんな気持ちだろうと想像してみました。河口には、客船がとまっていました。近くの島へ、お客さんを運ぶそうです。
「夏休みで海水浴に島へ行く人が多いのよ。」紀子は、今度はお父さんとお母さんと一緒にここへ来て、島へも行ってみたいなぁと思いました。海で泳ぐって、どんな感じだろう。なんだかわくわくします。美術館の女の子も、こんな日は、海水浴に行くかもしれないと、船に乗るお客さんの列に女の子の姿を探しました。
石巻文化センターには、高橋英吉の作品のコーナーがあります。あの美術館を初めて訪れた日のように、紀子はどきどきしてきました。文化センターのすぐ目の前を川が流れ、太平洋が手の届くところにあります。お客さんをたくさん乗せた船が、ちょうど通りすぎていきました。紀子は大きく手を振りました。
「そんなに大きいコーナーじゃないけど、紀子ちゃんも気に入ると思うよ。」二階の角に、そのコーナーはあって、誰も他の人はいませんでした。シーンとしています。暖かい色の照明の中に、英吉の作品が展示されています。捕鯨船の中で描いたスケッチ、戦地から家族に送った絵はがき、人物や動物の彫刻など。さっき大門崎公園でみた“潮音”の本物がここに立っていました。“潮音”は、30年以上も行方不明だったらしいです。でも、鳥取県にあることがわかり、持ち主の人が、英吉の故郷へと帰してくださいました。
あるケースに入った小さい彫刻について、良子さんは説明してくれました。そこだけ時間がとまったような空間。
「これはね、“不動明王像”(1942年)という作品なの。ガダルカナル島での戦争に行く船の中で、英吉が彫ったの。自分の手で、彫刻用のノミを針で作って、これを彫ったのよ。しかも、海を流れてきた木材の板で。これを彫って3ヶ月後に英吉は、戦争で死んだんですって。ずっと彫り続けたかったのよ。ずっとずっと。」
それは手のひらにのるほど小さい板です。これを船の中で、英吉はこつこつ彫ったのです。死に行くようだったガダルカナル島への船の中で。
「どんなことを考えながら彫ったのでしょうね。それとも何も考えずにひたすら彫ったのかなぁ。」この“不動明王像”は、英吉の死後、家族のもとへ届けられました。死ぬ前に、英吉が家族へ渡してくれるよう頼んだそうです。産まれて一ヶ月で別れなければならなかった赤ちゃんのための柔らかい布も一緒に箱に入っていたそうです。このコーナーには見上げるほど大きい作品がいくつも展示されています。そして、英吉が死ぬ前に最後に、彫った小さな作品も。
「今日はこれでおしまい。疲れたでしょ。朝早く出てきたから。お家に帰って、夕ご飯を作ろうね。」そう良子さんに言われて、紀子は急に疲れたと感じました。朝には鉄道の一人旅。そして彫刻を巡って歩いて、良子さんからいろんな話を聞いて。良子さんの家は、川岸にありました。川の両岸に家が並んでいて、昔は石切り場だったという山もあります。夕焼けが空いっぱい染めています。
「手伝ってね。」夕ご飯の準備が始りました。「ほら、石巻の名物、茶色い焼きソバよ。二回蒸しているから茶色い麺なの。」良子さんが細く刻んでくれたタマネギを紀子が炒めました。「紀子ちゃん、上手。」
それから、焼きソバを手でほぐしながら入れました。少しだし汁を入れるとジュッと音がして、天カスを入れ、さらに炒めます。そして目玉焼きをのせて、完成。
「こんな茶色い焼きソバ、見たことありません。」紀子の家では、黄色い焼きソバをスーパーで買ってきます。でも石巻の人は、石巻で生まれた茶色い焼きソバを食べる人が多いそうです。
「ソースをかけてもいいけど、だし汁の味がついているから、そのまま食べてもいいわよ。」「美術館の女の子もこんな焼きソバを食べているんだ。」と紀子は独り言を言いました。独り言ですが、大きな声だったらしく、良子さんは、「そうだよ。」と笑いながら答えてくれました。「キャベツやモヤシとか野菜を入れてもいいし、お肉を入れてもいいの。」
お父さんとお母さんがいない夜は初めてです。
「茶色い焼きソバを食べたんだよ。」とお母さんに電話で教えました。「とても美味しかった。お母さんにも食べさせてあげたいから、お土産に買っていくね。」「紀子が作ってくれるのね。」「うん。」「楽しみだぁ。」「目玉焼きものせるんだよ。」「へぇ、そうなの?」「良子さんの家では、タマネギだけ入れるんだけど、よその家は野菜やお肉も入れるんだって。」「じゃ、両方食べたいなぁ。」紀子は月明かりの川を見ながら、「おやすみ。」と美術館の女の子の顔を思い浮かべて眠りました。
次の日もいいお天気です。朝顔が咲いていました。川は昨日と同じく流れています。「おはよう。」と紀子は川に向かって言いました。「新しい川の水。おはよう。」良子さんも言いました。朝顔にも小鳥にも、猫にも声をかけました。「おはよう。みんな。」「なんだか、地球のみんなにおはようって言いたい気分。」「太陽さん、ありがとう。」
紫の朝顔もこちらを見つめ、小鳥も何かさえずり話かけています。紀子は、足もとに寄ってきた猫を抱き上げ、「ありがとう。」と頬をよせました。
「地球のみんなに、ありがとうって言いたい気分。」良子さんは、笑っています。「おはよう。そして、ありがとう。」
美術館の女の子も、きっと今朝、目覚めて誰かに「おはよう。」と言っているにちがいありません。紀子は、「おはよう。」ともう一度、言いました。
朝ごはんの後、高橋英吉の母校、石巻高校へ行きました。そこの図書室に、英吉の“仏像”(聖観音立像型式、1941年)があります。図書室の入り口に、ひっそりと立っていました。未完成の作品です。英吉は、まだこの仏像を彫り続けたかったのですが、戦争に行かなければなりませんでした。
やさしい表情の観音様。足も手もふくよかで、穏やかな空気に包まれています。英吉が捕鯨船に乗っている時に亡くなった母のために彫ったものです。英吉が東京の大学で芸術を学ぼうとした時、誰も賛成してくれませんでしたが、母だけが、応援してくれたのです。英吉の家は経済的に苦しい時でしたが、母は支えてくれました。
「ある時、この高校が火事になりました。生徒さん達は、すぐにこの観音様のことを思い、必死に守って運び出してくれたのです。」と図書室の人は教えてくれました。
観音様が、優しく迎えてくれている姿に、紀子はとても幸せな気分になりました。
「英吉が生きていたらどんな作品を彫ったでしょうね。こんなやさしいお顔の作品をもっと彫りたかったでしょうね。」
「もうずっと前に亡くなったのに、なんだか作品を見ていると、今もどこかで生きているみたいですね。」
「あの世で、お母さんは、戦争で亡くなった英吉と何をしゃべっているかしら。英吉の兄弟も戦死して、戦争で息子たちを奪われるなんてね。」
良子さんと図書室の人が会話しています。
「遠くから、わざわざ見に来てくれてありがとう。」と図書室の人は紀子に言いました。紀子は「いいえ。」と答え、そして「ありがとうございます。」と観音様におじぎしました。
石巻駅に着くと、紀子はもう一度、“母子像”をみて、こっそり赤ちゃんの頬をなでました。
「またね。」鳩が赤ちゃんの頭の上に飛んできました。「短い旅だったわね。また遊びに来てね。」「はい。今度はみんなで来ます。」「約束よ。待っているから。」
ホームで良子さんが見送ってくれました。
「たった二日間だったけど、私も紀子ちゃんと石巻を旅した気がする。ありがとう。」
美術館の女の子もホームのどこかで、見送ってくれているようです。「はい、これ、朝ごはんに食べた味噌汁のわかめ。紀子ちゃんがあんまりおいしいって食べてくれたから、お土産ね。」と良子さんは渡してくれました。
「おかえり。」家にもどると、サボテンには赤い花が咲いていました。紀子は夏休みの宿題に、サボテンの絵を描きました。サボテンの後ろには海を描きました。けんかをして、しばらく会わなかった千里ちゃんに電話をかけました。「茶色い焼きソバを作るから、今度の土曜に来てね。」と。
「女の子には会えたの?」お母さんはニコニコして尋ねました。
「うん!」元気に紀子は答えました。それから美術館へ行って、あの女の子の彫刻の前に立ちました。
「ただいま。行って来たよ。石巻へ。」女の子が手にしているサボテンには小さな花が咲いているようでした。一瞬、そう見えました。 <終り>