
去る2月6日に、元3年2組で生徒会長だったK.S君が東京にて急逝しました。ちょっと太めで、健康そのもののような彼が逝ってしまったことに、だれもが大きな衝撃を受けました。
10日に東京で「お別れの会」~「火葬」を、15日に女川・照源寺で「葬儀・告別式」を、大勢の会葬者が見守る中しめやかに執り行いました。
女川での通夜、葬儀には、かつての同級生がたくさん参列してくれ、遺族親族・ご近所の皆さんとともにK.S君を見送りました。
同級生代表として述べた弔辞を以下に紹介します。
弔 辞
2月6日、金曜日の午前7時17分、私の携帯電話がなりました。元3年1組のA・H君からの電話でした。しばらく間があった後、「K・Sが死んだ! 肺炎をこじらせたらしい…」と涙声で告げられました。寝起きであったため、夢の中のことと錯覚したし、本当に夢であって欲しいと思いました。
10日火曜日に、A・H君を中心とした東京の友人たちや会社関係の人たちで「お別れの会」を開催し、その後、荼毘にふすというので、何はともあれ、同じく元3年1組のH・K君と駆けつけました。そして当日、50人を超す人たちで、ありし日の君を偲びました。
K・S君、君とは中学校以来、40年の付き合いになります。A・H君とともに石巻高校を卒業し、同じように3人で上京し、渋谷区・笹塚の近場のアパートで、同じように浪人生活を送りましたね。でも私たちと違って、君は自立していて、親からの仕送りを断り、アルバイトをしながら、自活していました。
ビル清掃のバイト、酒屋のバイト、やがて数人の仲間たちと独立して酒屋を経営したり、最近では福祉関係の仕事を立ち上げて、事務所を切り盛りしていたと聞いていました。
女川一中の生徒会長当時からそうだったけど、君はとても明るくて、人の面倒見がよくて、君の周りにはいつも仲間が集まっていました。にぎやかで楽しくて、常に笑いが絶えませんでした。
また、君は絵を描くことが好きで、機会あるごとにいろいろなコンクールに出品していましたね。
東京に出てからも、君のその人付き合いの良さは変わらず、私たちは君を通じて、たくさんの友人を作ることができました。
20年ほど前に、私は家の事情で女川にUターンしたけれど、君とA・H君はずうっと東京に残りました。
それから私自身は1年に1度か2度、上京する機会があったのですが、その際には、必ず君に連絡しましたね。すると君はかつての仲間たちに集合をかけてくれ、飲み場所を設定してくれました。そしてその夜はいつも、君のアパートに泊まりました。何十年か前に君が描いた油絵や古ぼけた本が当時のままそこにありました。 昔のあの頃にタイムスリップし、とても懐かしい思いをさせてもらいました。
昨年の10月27日に上京した際にも、そのような楽しい一夜をみんなで過ごしましたね。そして今度会うときは、家を建て替えた先輩の新築祝いだよね、とみんなで約束したはずです。それが、こんな再会になろうとは・・・夢にも思いませんでした。
今年の1月下旬より、風邪気味だったそうですが、会社思いの君は少々無理をしながらも、日々の仕事をこなしていたと聞いています。2月4日に、体の異変を感じて、自分で救急車を呼び、新宿にある国立国際医療センターに入院しました。翌5日に、お母さんが上京し、面会した際には病状も快方に向っていたそうです。ところが翌朝、6日の午前6時25分、「肺炎球菌肺炎」のため、54歳を一期として、何も言わぬまま、突然に本当に突然にこの世を去ってしまいました。
どうしてそうなったのか、いまだに納得できません。
無念です。とても悔しいです。でも君はもっと、無念でしょう。もっと悔しいでしょう。
言いたいことはたくさんありますが、今は最後の別れの言葉をいわなければならない時です。
かけがえのない友人であったK・S君、安らかにお眠りください。
平成21年2月15日 友人代表 本郷 隆
『さるとり会』の皆さんにお願いしたいことがあります。今後このような知らせは出したくないのが本心ですが、あり得ないことではありません。そしてそれよりも、同級生としての事務的な知らせや大切な知らせ、またうれしい出来事等を、速やかにそして確実に連絡するために、皆さんのパソコンや携帯電話のメールアドレス(できれば両方、ケイタイの番号も)を、左メニュー中ほどのブックマーク【本郷 隆への Eメール】にて 私に教えて欲しいのです。
もちろん個人情報保護の立場から、事務局のみで保管し、同級生としての連絡にしか使用しませんし、同級生皆さんにも(本人が了とする場合を除く)公開はしません。理解と協力をよろしくお願いします。