gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

年寄になるという幸せ

2018-10-14 08:24:53 | ブログ
 TIME誌に「すばらしいかな、年寄になるという喜び」と題する記事があったので、その要点を紹介するとともに、私のコメントを追記する。

 ある心理学者は、「ある意味において、我々の少青年時代と中年時代は、老人になるという予想外の喜びを得るためのトレーニング期間である」と言う。

 心理学者、人類学者、その他研究者は言う:「老年期とは、概して、悲しみ、恐怖や後悔によってではなく、平穏、感謝の念、および充実感といった言葉で語られるものである。」

 ジョナサン・ラウチは、「幸福曲線」という著書の中で、こう述べている:「人生の満足感あるいは幸福度は、U字形の曲線をたどるようにみえる。すなわち、それは、子供時代と老年期に幸福度のピークをもつ。子供時代には、世界は一つの大きなテーマ・パークである。老年期になると、パークの乗物をすべて乗り尽くしたので、ただ人々が遊ぶ様子を眺めているだけで充分満足である。」

 本来は、経済力、将来性、生産性が人生で最大になる40代、50代で人は最も幸福を感じるべきなのである。しかし、実際にはそうならない。そのような経済力や生産性を維持するには、労働が必要である。しかもそのときこそ、他の圧力―子育て、ローンの支払い、子供の教育費などーも最大となる。40代、50代の生活は活力があって幸せそうに見えるが、体験的には必ずしも幸せではない。

 これから先は、私のコメントとなる。

 このようなU字形の幸福曲線をたどれる人は、理想的であって、好運な人であると思う。

 子供時代に、育児放棄、虐待、悪質ないじめ、性的虐待、セクハラなどを受けた人は、その当時は何をされたか充分理解できないとしても、後年になって、いつまでもトラウマとして心に残るのではなかろうか。

 子供時代には、経験から得る知識が少ないため、何が起こったのか判断できず、外部に助けを求めることができないが、成人した後、世の中の出来事や法律の知識が増えるに従って、子供時代の記憶が蘇るのであろう。テレビのドラマでも、育児放棄、虐待、いじめの場面や、後年になって生じる親子の仲違いの場面がよく出てくる。

 セクハラに関しては、#MeToo運動以来、TIME誌でもこれに関する記事が増えてきた。子供時代に受けたセクハラは、親にも言えず、50代になってその記憶が蘇り、トラウマになるケースが少なくないようだ。こうなると、セクハラ犯罪は、刑法あるいは民法で規定する時効となっているので、時効を過ぎても訴訟できるようにする特例を立法化するか否か議論となっている。ただ、このような特例が法制化されたとしても、犯罪者、被害者ともに事件当時の記憶が薄れているであろうし、目撃者あるいは証人を探すのは容易ではないので、事件の立証は難しいであろう。

 セクハラの記述でだいぶ横道にそれたが、子供時代あるいはその後に受けた上記のような人的被害は老年期になっても心の傷として残るものだろうか。もしそうだとしても、そのトラウマを克服して老年期の喜びを享受することが望まれる。

 少青年期にトラウマとなるような人的被害をほとんど受けていないか老年期に入る前に克服できた人は、理想的な老年期を送れるだろうか。

 老人がその年齢にふさわしい知恵を備えるためには、老年期になる前に総合的な判断を下すに充分な記憶の蓄積が必要である。以前に書いたように、「脳は自分が見たいと思うものしか見ていない」のであり、視覚器官から入力される情報は20%ほどであり、残りの80%は脳内に蓄積されている内部情報である。従って、その場のエビデンスに基づくよりも脳内に記憶されている情報に重みづけするような判断は、妄想に近いものとなる。

 老年期に入っても不平、不満が多いとか切れやすいという人は、それ以前に脳のトレーニングをしていないとか、トレーニング方法に問題があったのではなかろうか。

 このような見解に対して、現代のような変化が激しい時代にあっては、老人が時代についていくのは容易ではない、従って老人の知恵に期待することはできない、むしろ若者のアイデアや行動力に期待したいとする意見があるだろう。

 また、多くの年寄は、寝たきりや認知症など介護の対象になるか、そうならないように自分の身をいたわるのに精一杯で、知恵を備えた老人とは程遠い、という意見もあるだろう。

 しかし、それでもなおかつ、U字形の幸福曲線をたどる人生を理想としたいものである。冒頭の心理学者の言葉を自己流に言い直して、「少青年時代と中年時代は、知恵のある老人になるためのトレーニング期間である」としてもよいと思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿