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「打撃の職人」山内一弘さんを悼む

2009年02月05日 | Baseball/MLB

(2005年の「野球文化學會」総会での山内一弘さん)

 

 野球を始めた小学生の頃、少年野球のコーチからよく、「王(貞治)の一本足打法、近藤和彦の天秤打法、江藤(慎一)のヘッドスライディングはマネをしないように」と言われていたものだ。

 逆に「お手本にしなさい」と言われていたのが、当時は広島カープで選手生活の晩年を迎えていた山内一弘さんのバッティングフォームだった。まだ打撃理論の「ダ」もわからぬ年齢ながら、無駄がなく、しかも美しいそのバットスイングを見て、子供ながらに「なるほど」と思ったものだ。

 

 後年、田村大五さん(元週刊ベースボール編集長、ベースボール・マガジン社常務)にその話をしたところ、
「プロの打者でもヤマさんのフォームをお手本にしていたからね。野村(克也)がオールスター戦でネクストバッターズサークルにいるとき、打席のヤマさんを穴があくほどじっと見ていたのをよく憶えているよ」と語っていた。

 

※野村監督の談話「練習前の打撃練習や試合中もマスク越しに観察して手本にした。守備も優れていた。野球一筋で見本のような人。すべてを目標にしていた」

 

 その山内さんへのインタビューが実現したのは、私がフリーになって2年目、1999年のことだった。「週刊ベースボール」から依頼された尾崎行雄投手(東映フライーヤーズ)の読み切りノンフィクションを書くにあたり、デビュー戦で対戦した山内さんの証言を得るためだった。

 

 場所は東京ドームに隣接する「青いビル」のなかにある後楽園飯店。山内さんはこの店のフカヒレソバが大好物で(ほかにも長嶋茂雄さんなど、好物にしている野球人が多い)、「どうせなら(インタビュアーの私と)一緒にソバでも食べながら話を聞いてもらおう」とのご希望で、編集部がセッティングしたものだった(もっとも私はさすがに恐れ多くて、「豚角煮ソバ」を注文しましたが)。

 

 取材の主題は尾崎投手のことだったが、ほかにもオリオンズやタイガース、カープでの現役時代、オリオンズの本拠地だった東京スタジアムや、定評のあった打撃理論についても2時間以上にわたってお話を伺った。その際、打撃フォームの写真を撮るため、いつもバッティングセンターで使用していた自前の軟式木製バットを持参したのだが、その表面に残っていたボールの跡を見るなり、
「これは芯に当たっていないな。ちょっと説明してあげよう」と、即席の打撃教室が始まった。

 

 現役引退後、ジャイアンツでの打撃コーチを皮切りに、ロッテ、中日の監督、阪神やオリックスの打撃コーチなど、長く指導者としても野球界に貢献した山内さん(そのために殿堂入りが大幅に遅れてしまったのだが)は、その熱心な打撃指導ぶりから「かっぱえびせん」の異名を取った。つまり「やめられない、止まらない(当時のCMソング)」というわけだったのだが、シロウトの私でも例外ではなく、「山内教室」は30分以上続いた。

 

 

(同じく2005年の「野球文化學會」総会で、山内さんと管理人)

 

 

 やがて、私が現在幹事を務める「野球文化學會」の総会でもお目にかかるようになり、2005年の総会では会員の皆さんを前に、やはり大好きなバッティングの話を熱心に披露していただいた。

 

 しかも山内さんは決して打つだけの選手ではなく、左翼の守備も超一流で、狭い野球場が多かった時代にプレーしたとはいえ、通算175補殺は現在も外野手としてのプロ野球記録であり、通算盗塁は118個ながら、現役引退時点の通算448二塁打も長く歴代1位だった。 

 

 プロ野球史にこれほどの足跡を残した大スターでありながら、「オレが、オレが」といったタイプでは決してなく、私がインタビューした際も、ご自分の話よりも、オリオンズでのデビュー当時に監督として薫陶を受けた別当薫さんや、オールスターで自分を抜擢してくれた鶴岡一人監督(南海)、対戦相手だった稲尾和久投手(西鉄)や杉浦忠投手(南海)、尾崎投手や、1955年秋に来日したヤンキースの思い出を熱心に語っておられたのを思い出す(ちなみに山内さんが現役時代使用していたバットは、ヤンキースで背番号「8」を背負っていたヨギ・ベラと同じタイプのものだったそうだ)。

 

 ちなみに、現役時代を通じて背負っていた背番号「8」は、最後にプレーした広島で、山内さん自身の意向もあって、のちの“ミスター赤ヘル”山本浩二選手に1971年から引き継がれた。現在は山本浩二選手の功績をたたえて永久欠番に指定されているが、1975年にカープが初優勝を飾り、首位打者となった浩二さんがMVPに選ばれるまで、私には広島の背番号「8」は山内さんのイメージが長く残っていた。

 

 読売ジャイアンツV9の真っ只中で、まさに「読売巨人中心主義」一色だったプロ野球界にあって、プロ野球を支えているのはONや巨人の選手だけじゃないんだと、自らのプレーでファンに強烈にアピールした、偉大な野球人の一人だった。

 

 その山内さんが、今月2日、天国へと旅立たれた。また「野球文化學會」の総会などで、若い会員を前にあの熱い打撃論を大いに語っていただきたかったのだが、それは叶わぬ願いとなってしまった。

 

「打撃の職人」「オールスター男」「シュート打ちの名人」──そのほかにも数々の異名やニックネームを献上されたことでも、人気・実力を兼ね備えた、本当のスーパースターだった。

 広島で同僚だった山本一義氏(ロッテで山内さんの後任監督でもあった)は、「テスト生でプロに入って、自分の技術を磨こうという貪欲さが人の何倍も強かった」と当時の思い出を語ったあと、「ああいう人と出会えて嬉しかった」と締めくくっているが、私もまったく同じ気持ちだ。

 

 山内一弘さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

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