和束 茶源郷ガイドの会「徒然草」

京都府景観資産登録の茶畑や史跡や歴史の中へご案内する和束茶源郷ガイドが皆さまの訪問をお待ちしています。

和束 茶源郷ガイドの会 活動報告 4月2日(日)

2017年04月02日 22時41分31秒 | 日記
2017年4月2日(日)晴 和束 茶源郷ガイドの会「春企画ウオーク」 
中世の「米山城址」と和束川沿いの春を楽しむウォーク


普段のウォークなら今日は程良い日差しと時折風が吹く、歩くには文句ない 日和なのに一番の楽しみの桜はまだ蕾。
春と言えば桜なのに。
2ヶ月前から企画して下見も済ませて準備万端なのに、今年も桜の開花時期とウォーク日を当てるのが実に難しい。
ガイド実施日が去年は遅く、今年は早かった・・・・・・。
残念ながら桜は無いけれど、今日は和束の歴史の学びを深めようと気持ちを入れ替えウォークをスタートしました。
このコーナでは、今日はこんなところから来て下さいました、こんなことがありましたとお知らせするのと同時に和束町はこんなところですと町内外の方にはもちろんのこと、町を離れて暮らす和束の方にまだ知らない故郷の良さを伝えたいと綴っています。
そんなところがあったのか、そんな小さな光る発見があればいいなと思っています。
さて今日は米山城址に行くのが一番の目的。
和束にお城があったの?と思われるでしょうが、4か所ありました。
4か所の山城とは、この米山城址のほか米城出城 森田城(白栖城) 杣田城。
普通、城と言えば二条城や大阪城のように石垣が積まれ、水堀がめぐらされた姿を思いますが、和束にあった城は、こういった城とは違います。大阪城等は平城(ひらじろ)と言って平地に築かれています。一方和束の城は山城(やまじろ)と言って、山頂や山腹に設け防御を自然の険しい地形に依存しています。
南山城地方にはおおよそ60数ヶ所に存在していたことが確認されているようで、南北朝時代の内乱期から戦国時代まで全国で数多く築かれているようです。
 
ではなぜ、和束に城郭が築かれたのかと思ってしまいますが、和束谷は古代より大和・南山城村から信楽・近江へと通じる交通の要所で中世の動乱期には軍事上、重要視された戦略上の拠点であり、城郭は陸上交通路を支配し得る要地に立地していると和束町史にも記されています。
この米山城主は、1249年出城を築城、その後代を替えて白山神社神殿を造営、祝橋架替、大智寺(湯船)の造営、不空寺(金蔵院)の再建 米山に稲荷神社を祀り、天満宮・春日神社・熊野神社の再建等多くの事を成し遂げています。

米山氏は長年森田氏と合戦を繰り返し、1575年森田城を落城させています。
城跡地まで美しい茶畑に様変わりするとは米山氏は想像したでしょうか。
城址には今は何もありませんが、米山氏の功績に思いを馳せ、今も残る建造物を目の前に中世に想いを巡らすのも良いものです。
 
米山城址は、前面に養生の芝を抱く鷲峰山、町の中央を流れる和束川、和束谷の耕地や山肌を覆いつくす茶畑が一望できるところにあります。
興味を持っていただけたなら、また一緒に歩きましょう。


コメント
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