遙かなる高き峰々より吹く風に応えて

その風は、ぼくに呼びかけてくる・・・。

睡眠・・・学習ではないのに

2009年11月30日 | つれづれなるままに・・・
 最近、寝る前に禅定をするのが日課となりそれも楽しみとなってきた。禅定というのは、別段、無の境地になるわけではない。無の境地になるなんて、到底ありえないことだ。人間は常に想念の働きがある。その止め処もなく動く状態を穏やかにし、そして、止めることはできても、止め続けることはできない。

 座禅を組みそのなかで悟りを得たという禅僧が過去においても少なからずいたとされるが、その質においては、決して本来の悟りにはほど遠いものである。ぼくの知っている範囲では、せいぜい明恵ぐらいのものである。

 明恵の悟りとは大地の呼吸とともに自らのこころと身体が同化していった段階ではないかと推察される。いや、これ自体が実はとてもすごいことなのだ。
 座りながらにして、庭のどこかで小鳥が怪我していることを知ってしまうことは、この証である。意識は身体をオーバーラップして、周囲のことがすべてわかってしまうのだ。
 ぼくも歩きながらにしてこのことができれば、あえて地形図を見なくとも完璧なルートファインデイングができるだろうに、とも思うのだが、こんな邪な気持ちでやっているから、下手すると禅定は即睡眠に転化してしまうのだ。
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