葛飾区白鳥に、第二次世界大戦中に陸軍が建造した迎撃用高射砲の台座の痕跡が残っているという文献を読んだので、見に行ってみました。
国道6号線(水戸街道)白鳥交差点の北側です。
最寄り駅は京成線のお花茶屋です。
先日、北の丸公園の高射砲陣地跡をご紹介しましたが、終戦間際には本土決戦に備え、都内各地にこのような迎撃施設が作られたようです。
この青戸高射砲陣地は、1943年に構築されたそうです。
陸軍高射第一師団第115連隊第二大隊のうち、3中隊がここの高射砲陣地に配備されました。
当時ここには18門の高射砲が配置され、3中隊がそれぞれ6門を受け持ったそうです。
一帯は今、住宅街になっていて、軍事施設だった面影はまったく残っていません。
見つけました。

駐車場のこの円形のモルタル舗装が高射砲台座跡です。
ちょうど駐車場の転車台ぐらいの大きさなので、多くの人はこれがそんな物々しい施設の痕跡とは気がつかないと思います。

台座の中央に八角形の枠があります。高射砲はここに収められていたのでしょうか。

台座跡から、ボルトらしき金属が少しだけ顔を出していました。台を固定するアンカーだったのでしょうか。

これは別の駐車場です。この駐車場の中央の黒ずんだ場所も、台座跡です。
駐車場には砂利が敷き詰められていますが、台座の上はアスファルトで固められています。

サビがにじんでいます。この下にもアンカーが埋まっているようです。

台座跡は、このアパートの奥にもありました。

これは台座の上の部分が立体的な状態で残っています。

丸みを帯びていることがわかります。
何やら受水槽か貯水槽のような施設が乗っかっています。ちょうど便利なサイズだったのでしょう。

この台座跡は、住宅の土台の一部として利用されています。半分が削り取られて、断面を見ることができます。

ここにも金属の塊が顔をのぞかせています。台座を支えていた部品でしょうか。
この遺構は、見る者に多くを問いかけてきます。
とても考えさせられます。
砲台の痕跡を調べながら当時の様子を想像してみます。
ここに配備された18門の高射砲は、果たして帝都東京への攻撃から守ることができたのでしょうか。
当時の軍事技術や粗雑な台座の造りから想像すると、高高度を高速飛行するB-29に命中させるのは到底無理だったはずです。
「1発命中した」という記録もあるようですが、これが事実とすれば、超低空飛行した敵機に偶然当たったものでしょう。
大被害を出した1945年3月10日の東京大空襲は高度1600から2200メートル程度の超低高度攻撃だったとされますが、そのときこの陣地はどんな防衛をしたのか、首を傾げてしまいます。
敵情に対する無知なのか、知っておきながらこのような効果の疑わしい防衛設備を作ったのかは不明です。
高射砲の導入費用もさることながら、3中隊を配備したわけですから、数百人の兵隊が任に当たったと思われます。
降伏することもできず、首都への攻撃を無防備なまま応戦するわけにもいかず、手を尽くしたということでしょう。
しかし、付け焼き刃です。
まったくもって無駄な投資、無駄な抵抗に終わりました。これでは守ることができるはずがありません。
いまや落ち着いた平和な下町で晴天の空を見上げ、我々が進んできた道に思いを馳せました。
国道6号線(水戸街道)白鳥交差点の北側です。
最寄り駅は京成線のお花茶屋です。
先日、北の丸公園の高射砲陣地跡をご紹介しましたが、終戦間際には本土決戦に備え、都内各地にこのような迎撃施設が作られたようです。
この青戸高射砲陣地は、1943年に構築されたそうです。
陸軍高射第一師団第115連隊第二大隊のうち、3中隊がここの高射砲陣地に配備されました。
当時ここには18門の高射砲が配置され、3中隊がそれぞれ6門を受け持ったそうです。
一帯は今、住宅街になっていて、軍事施設だった面影はまったく残っていません。
見つけました。

駐車場のこの円形のモルタル舗装が高射砲台座跡です。
ちょうど駐車場の転車台ぐらいの大きさなので、多くの人はこれがそんな物々しい施設の痕跡とは気がつかないと思います。

台座の中央に八角形の枠があります。高射砲はここに収められていたのでしょうか。

台座跡から、ボルトらしき金属が少しだけ顔を出していました。台を固定するアンカーだったのでしょうか。

これは別の駐車場です。この駐車場の中央の黒ずんだ場所も、台座跡です。
駐車場には砂利が敷き詰められていますが、台座の上はアスファルトで固められています。

サビがにじんでいます。この下にもアンカーが埋まっているようです。

台座跡は、このアパートの奥にもありました。

これは台座の上の部分が立体的な状態で残っています。

丸みを帯びていることがわかります。
何やら受水槽か貯水槽のような施設が乗っかっています。ちょうど便利なサイズだったのでしょう。

この台座跡は、住宅の土台の一部として利用されています。半分が削り取られて、断面を見ることができます。

ここにも金属の塊が顔をのぞかせています。台座を支えていた部品でしょうか。
この遺構は、見る者に多くを問いかけてきます。
とても考えさせられます。
砲台の痕跡を調べながら当時の様子を想像してみます。
ここに配備された18門の高射砲は、果たして帝都東京への攻撃から守ることができたのでしょうか。
当時の軍事技術や粗雑な台座の造りから想像すると、高高度を高速飛行するB-29に命中させるのは到底無理だったはずです。
「1発命中した」という記録もあるようですが、これが事実とすれば、超低空飛行した敵機に偶然当たったものでしょう。
大被害を出した1945年3月10日の東京大空襲は高度1600から2200メートル程度の超低高度攻撃だったとされますが、そのときこの陣地はどんな防衛をしたのか、首を傾げてしまいます。
敵情に対する無知なのか、知っておきながらこのような効果の疑わしい防衛設備を作ったのかは不明です。
高射砲の導入費用もさることながら、3中隊を配備したわけですから、数百人の兵隊が任に当たったと思われます。
降伏することもできず、首都への攻撃を無防備なまま応戦するわけにもいかず、手を尽くしたということでしょう。
しかし、付け焼き刃です。
まったくもって無駄な投資、無駄な抵抗に終わりました。これでは守ることができるはずがありません。
いまや落ち着いた平和な下町で晴天の空を見上げ、我々が進んできた道に思いを馳せました。









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