盤龍山西堡塁は、旅順に残る知られざる日露戦跡です。
盤龍山は1904年8月の第一回旅順総攻撃で最初の攻撃目標とされた場所です。
当時、ここでは壮絶な戦いが繰り広げられました。
日本軍はロシア軍が張り巡らした鉄条網に行く手を阻まれ、要塞から飛び出してくる機関銃や速射砲のシャワーを受け、地雷原が爆発し、おびただしい数の日本兵が命を落としました。
「坂の上の雲」を引用すると、維新後の日本が「近代」を知った初めての経験だったと言えるかもしれません。
苦戦しながらも乃木希典率いる第三軍は、8月22日、この堡塁の占領に成功します。
資料によると、頂上には1916年に満州戦績保存会が建てた記念の石碑が今も残っているようです。

(当時の写真です。ここを目指します)
しかし、どんなガイドブックにもその場所が記されていません。
1930年代の古地図を頼りに探してみました。

(どうやら、この丘の頂上辺りに石碑があるようです)
一帯はリンゴ園になっていました。
ここの管理者と思われる一軒の農家家屋(上の写真右の家)の脇を通ろうとすると、僕の存在に気付いたリードなしの番犬がすごい勢いで飛び出して来て、猛烈な威嚇を受けました。
こんな深い森林でこんな大型犬に噛まれたらひとたまりもありません。
ここはルート変更です。
農家を離れ、写真左側から大きく迂回して登ってみました。

(見つかりました。どうやらこれです)
花崗岩でできた石碑の高さは3.7メートルです。横に大きいタイプです。

(リンゴ園のど真ん中です)

(正面から撮ろうとすると枝が入り込んできます。夏だったら見えないと思います)

(近づいてみます)

(碑文が書かれています)
碑文にはこう書かれています。
明治三十七年八月廾二日第九師團ノ一部隊之ヲ攻撃シ同日占領ス
陸軍中將竹内正策碑名ヲ書ス
大正五年十月
滿洲戰蹟保存會
一帯には塹壕の跡は残っていますが、二龍山や東鶏冠山北のようなべトンで固めた近代的な構造物はありません。
だからこそ攻略できたのかもしれません。
ここからロシア旅順要塞東北正面側の最終防御ラインである望台の間には、谷ができています。望台までの距離は約1キロ、ロシア側の重要拠点だった二龍山への距離も同じく1キロほどでしょうか。
ここから旅順攻囲戦最後の交戦地となった望台を占領するまでに、4カ月余りがかかったということになります。
この盤龍山西堡塁を占領しても、その先で待ち構える近代的なロシア要塞の内部構造までは知り得ることができず、ここから本当の苦しみが始まったわけです。
のどかなリンゴ園の風景からは、当時の壮絶な戦闘は想像もつきません。
このリンゴ園の大地が、110年前に多くの同胞の血を染み込ませたと思うと、身が引き締まる思いに駆られます。
盤龍山は1904年8月の第一回旅順総攻撃で最初の攻撃目標とされた場所です。
当時、ここでは壮絶な戦いが繰り広げられました。
日本軍はロシア軍が張り巡らした鉄条網に行く手を阻まれ、要塞から飛び出してくる機関銃や速射砲のシャワーを受け、地雷原が爆発し、おびただしい数の日本兵が命を落としました。
「坂の上の雲」を引用すると、維新後の日本が「近代」を知った初めての経験だったと言えるかもしれません。
苦戦しながらも乃木希典率いる第三軍は、8月22日、この堡塁の占領に成功します。
資料によると、頂上には1916年に満州戦績保存会が建てた記念の石碑が今も残っているようです。

(当時の写真です。ここを目指します)
しかし、どんなガイドブックにもその場所が記されていません。
1930年代の古地図を頼りに探してみました。

(どうやら、この丘の頂上辺りに石碑があるようです)
一帯はリンゴ園になっていました。
ここの管理者と思われる一軒の農家家屋(上の写真右の家)の脇を通ろうとすると、僕の存在に気付いたリードなしの番犬がすごい勢いで飛び出して来て、猛烈な威嚇を受けました。
こんな深い森林でこんな大型犬に噛まれたらひとたまりもありません。
ここはルート変更です。
農家を離れ、写真左側から大きく迂回して登ってみました。

(見つかりました。どうやらこれです)
花崗岩でできた石碑の高さは3.7メートルです。横に大きいタイプです。

(リンゴ園のど真ん中です)

(正面から撮ろうとすると枝が入り込んできます。夏だったら見えないと思います)

(近づいてみます)

(碑文が書かれています)
碑文にはこう書かれています。
明治三十七年八月廾二日第九師團ノ一部隊之ヲ攻撃シ同日占領ス
陸軍中將竹内正策碑名ヲ書ス
大正五年十月
滿洲戰蹟保存會
一帯には塹壕の跡は残っていますが、二龍山や東鶏冠山北のようなべトンで固めた近代的な構造物はありません。
だからこそ攻略できたのかもしれません。
ここからロシア旅順要塞東北正面側の最終防御ラインである望台の間には、谷ができています。望台までの距離は約1キロ、ロシア側の重要拠点だった二龍山への距離も同じく1キロほどでしょうか。
ここから旅順攻囲戦最後の交戦地となった望台を占領するまでに、4カ月余りがかかったということになります。
この盤龍山西堡塁を占領しても、その先で待ち構える近代的なロシア要塞の内部構造までは知り得ることができず、ここから本当の苦しみが始まったわけです。
のどかなリンゴ園の風景からは、当時の壮絶な戦闘は想像もつきません。
このリンゴ園の大地が、110年前に多くの同胞の血を染み込ませたと思うと、身が引き締まる思いに駆られます。









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