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中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

旅順 ロシア人慰霊碑「旅順陣歿露軍将卒之碑」

2015-10-31 | 旅順を歩く
旅順の小案子山の麓に、日本政府が建立した日露戦争で戦死したロシア人の慰霊碑が残っています。
「ソ連軍烈士陵園」の一角にあります。


(外国人墓地の奥まった場所です)


(当時の写真と比較してみます)


(記念碑には「明治四十年」と刻印されていますが、記録上は1908年(明治41年)の建立だったようです。中央の文字に注目してください)

勝った日本が負けたロシア兵のためにこんなに大型の慰霊碑を建てるとは、敵を敬う武士道精神が伝わってきますね。

この慰霊碑の建立の経緯は、外務省ウェブサイト「外交史料 Q&A」に記載されています。

引用してみましょう。

●Question

日露戦争で戦没したロシア人戦没者のために日本が慰霊碑を建立したというのは本当ですか。

●Answer

本当です。
日露戦争において最大の激戦となった旅順の戦いで日本とロシアは、ともに多数の死傷者を出す結果となりました。1905年(明治38年)1月の旅順開城後、同地の日本軍は日露両国戦死者の遺骸処理を開始し、仮埋葬と木製墓標の設置を行いました。しかし、その多くが暴かれて盗掘などの被害に遭ったため、同年末、関東総督の大島義昌が、ロシア人戦没者の遺骸を墓地に収容し丁重に保存すべしとの訓示を出すとともに、「露兵陣歿者遺骸収容及墓地保存規定」を設けました。
その後日本政府は、旅順におけるロシア人墓地を改葬して慰霊碑を建立することを定め、1906年(明治39年)8月、旅順要塞司令官の税所篤文(さいしょ・あつぶみ)を委員長とする旅順陣歿露兵遺骸合理委員会を設置してその実施にあたらせました。これにより、1908年(明治41年)3月に「旅順陣歿露軍将卒之碑」が完成し、同年6月10日、日露両国代表者参列の中、除幕式が挙行されました。この間の経緯については、外務省記録「旅順ニ於ケル露国戦死者弔魂碑除幕式挙行一件」に関係記録が含まれています。(以下略)


この慰霊碑が設置されている「ソ連軍烈士陵園」は、中国でも最大級の外国人墓地で、48,000㎡もの敷地を有しています。


(中国が1955年に建てたソ連記念塔が知られています。かつては大連市内の中山広場に設置されていました)


(こちらは保護単位になっています)

中国人もロシア人も、多くの人が慰霊に訪れます。
日本が建てた慰霊碑は一番奥まった静かな場所で、今もひっそりとロシア兵の慰霊の気持ちを伝えています。
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