ラストエンペラー・溥儀の弟である溥傑とその日本人妻・嵯峨浩(さが・ひろ)が晩年を暮らした家が残っています。
什刹海の西側、護国寺街の一角です。

伝統的な北京の四合院です。
門簪(門扉の上についているこの六角形の飾り)は2本です。門簪は数が多いほど身分が高いとされ、2本はごく普通の市民の位です。
溥傑は満州国崩壊後、溥儀や婉容皇后、浩らとともに日本への亡命を企てるも失敗し、ソ連で捕虜となり、さらに撫順戦犯管理所に収容され、1960年に特赦を受けて釈放されました。
その後、北京に戻って居を構えたのがここです。
ここは溥儀・溥傑の父である醇親王が保有していたそうです。
1947年に日本に引き揚げていた浩は、溥傑の釈放の報を受けた後、周恩来の恩徳を受けて翌1961年に北京を訪れ、2人は16年ぶりの再会を果たします。
2人は、そこから終生、ここで一つ屋根の下、市井の人となって慎ましい暮らしを送りました。
2人が結婚したのは1937年、東京でした。
浩は皇室と姻族関係にある侯爵・嵯峨家の長女でした。お嬢様中のお嬢様です。
満州国と日本との関係強化を狙った関東軍による政略結婚でした。


嵯峨家に事前の相談はなく、関東軍から一方的に決められたといいます。問答無用というわけです。
そんな背景で結ばれた2人は、皇帝の弟夫婦として新京(長春)を拠点にわずか8年間の結婚生活を経ただけで、互いの行方がわからないまま16年の時を隔てたわけです。
浩は壮絶な流転生活の中でさんざん嫌な思いもしたでしょうし、命の危険も幾度となくありました。生まれ育った環境もまったく違います。
もう中国には行きたくない、このまま日本で安らかに暮らしたいと思いそうなところですが、あにはからんや浩は当時国交のなかった中国に渡航して、溥傑との暮らしを再開させることを選びます。
相当な決意と覚悟がなければできない決断です。怖かったはずです。
2人が相当深い愛情と強い信頼で繋がっていたことが伝わってきます。
溥傑は、長い撫順の獄中生活で、浩との再会を切望しながらも、結婚の経緯とこの先の両国関係を考えると離婚もやむなし、なにより罪人である自分には愛される資格がないと考えてきたそうです。
しかし、浩はぶれることなく溥傑と一緒に暮らすことを願い、祈り続けていました。
浩をそう思わせた溥傑という人物は、相当心の美しい人格者だったのでしょう。ここまで愛されるとは、男冥利に尽きるというものです。
2人は満州国に仕えた時期から日本軍閥の横暴と軍国主義を憎み、平和主義で友好と親善を目指しました。価値観が完全に一致していたのだと思います。
仲の悪かった溥儀皇帝・婉容皇后夫妻とはまったく対照的です。

ちなみに、浩は終戦後、満洲国の首都だった新京(長春)からの逃避行と流転生活の中で、婉容と行動を共にしています。
当時、アヘン中毒でコミュニケーションや自立ができなくなていた婉容を献身的にサポートしたそうです。浩は、溥儀から関東軍の回し者だと疑われ続けていたにもかかわらず、です。
こうしたエピソードからも、浩が誠実でホスピタリティにあふれた女性だったことが分かります。
この溥傑と嵯峨浩の波乱の人生は、テレビドラマ化されています。
2003年にテレビ朝日が制作した「流転の王妃・最後の皇弟」という5時間半に及ぶ大作です。溥傑を竹野内豊が、浩を常盤貴子が好演しました。
ドラマでは描かれていませんが、1965年から文革が始まりましたので、浩はここでも相当な苦労を強いられたはずです。
それでも帰国せずに北京で暮らし続けたことには脱帽します。

浩は1987年に逝去しましたので、ここで26年間を過ごしたということになります。
2人は邸宅の中庭で野菜や草花を育てて楽しんだそうです。
溥儀もときどきこの家に遊びに来たそうです。その頃はもはや皇帝ではなく、ただの兄です。
溥儀が来ると、浩は溥儀の好物である紫蘇の天ぷらを作ってふるまったそうです。浩は溥儀のために、この庭で紫蘇を育てていたといいます。
また、溥傑の自伝(1994年刊行)によると、溥傑邸の中庭には、旅順水師営会見所から接ぎ木したという高さ6メートルの棗の木が植えられているそうです。
深い愛情に支えられ、信念を貫いた夫妻です。
旧溥傑邸であることを示す碑や掲示板はありません。
賑やかな老北京の風景に溶け込むように、静かに近代の歴史を伝えています。

旧溥傑邸のある護国寺街です。庶民的な店が並んでいます。
溥傑と浩はよくここを2人で歩いて商店街の人たちと交流したそうです。


旧溥傑邸の向かい側の店です。溥傑や浩もこれらの店を利用したのでしょう。
什刹海の西側、護国寺街の一角です。

伝統的な北京の四合院です。
門簪(門扉の上についているこの六角形の飾り)は2本です。門簪は数が多いほど身分が高いとされ、2本はごく普通の市民の位です。
溥傑は満州国崩壊後、溥儀や婉容皇后、浩らとともに日本への亡命を企てるも失敗し、ソ連で捕虜となり、さらに撫順戦犯管理所に収容され、1960年に特赦を受けて釈放されました。
その後、北京に戻って居を構えたのがここです。
ここは溥儀・溥傑の父である醇親王が保有していたそうです。
1947年に日本に引き揚げていた浩は、溥傑の釈放の報を受けた後、周恩来の恩徳を受けて翌1961年に北京を訪れ、2人は16年ぶりの再会を果たします。
2人は、そこから終生、ここで一つ屋根の下、市井の人となって慎ましい暮らしを送りました。
2人が結婚したのは1937年、東京でした。
浩は皇室と姻族関係にある侯爵・嵯峨家の長女でした。お嬢様中のお嬢様です。
満州国と日本との関係強化を狙った関東軍による政略結婚でした。


嵯峨家に事前の相談はなく、関東軍から一方的に決められたといいます。問答無用というわけです。
そんな背景で結ばれた2人は、皇帝の弟夫婦として新京(長春)を拠点にわずか8年間の結婚生活を経ただけで、互いの行方がわからないまま16年の時を隔てたわけです。
浩は壮絶な流転生活の中でさんざん嫌な思いもしたでしょうし、命の危険も幾度となくありました。生まれ育った環境もまったく違います。
もう中国には行きたくない、このまま日本で安らかに暮らしたいと思いそうなところですが、あにはからんや浩は当時国交のなかった中国に渡航して、溥傑との暮らしを再開させることを選びます。
相当な決意と覚悟がなければできない決断です。怖かったはずです。
2人が相当深い愛情と強い信頼で繋がっていたことが伝わってきます。
溥傑は、長い撫順の獄中生活で、浩との再会を切望しながらも、結婚の経緯とこの先の両国関係を考えると離婚もやむなし、なにより罪人である自分には愛される資格がないと考えてきたそうです。
しかし、浩はぶれることなく溥傑と一緒に暮らすことを願い、祈り続けていました。
浩をそう思わせた溥傑という人物は、相当心の美しい人格者だったのでしょう。ここまで愛されるとは、男冥利に尽きるというものです。
2人は満州国に仕えた時期から日本軍閥の横暴と軍国主義を憎み、平和主義で友好と親善を目指しました。価値観が完全に一致していたのだと思います。
仲の悪かった溥儀皇帝・婉容皇后夫妻とはまったく対照的です。

ちなみに、浩は終戦後、満洲国の首都だった新京(長春)からの逃避行と流転生活の中で、婉容と行動を共にしています。
当時、アヘン中毒でコミュニケーションや自立ができなくなていた婉容を献身的にサポートしたそうです。浩は、溥儀から関東軍の回し者だと疑われ続けていたにもかかわらず、です。
こうしたエピソードからも、浩が誠実でホスピタリティにあふれた女性だったことが分かります。
この溥傑と嵯峨浩の波乱の人生は、テレビドラマ化されています。
2003年にテレビ朝日が制作した「流転の王妃・最後の皇弟」という5時間半に及ぶ大作です。溥傑を竹野内豊が、浩を常盤貴子が好演しました。
ドラマでは描かれていませんが、1965年から文革が始まりましたので、浩はここでも相当な苦労を強いられたはずです。
それでも帰国せずに北京で暮らし続けたことには脱帽します。

浩は1987年に逝去しましたので、ここで26年間を過ごしたということになります。
2人は邸宅の中庭で野菜や草花を育てて楽しんだそうです。
溥儀もときどきこの家に遊びに来たそうです。その頃はもはや皇帝ではなく、ただの兄です。
溥儀が来ると、浩は溥儀の好物である紫蘇の天ぷらを作ってふるまったそうです。浩は溥儀のために、この庭で紫蘇を育てていたといいます。
また、溥傑の自伝(1994年刊行)によると、溥傑邸の中庭には、旅順水師営会見所から接ぎ木したという高さ6メートルの棗の木が植えられているそうです。
深い愛情に支えられ、信念を貫いた夫妻です。
旧溥傑邸であることを示す碑や掲示板はありません。
賑やかな老北京の風景に溶け込むように、静かに近代の歴史を伝えています。

旧溥傑邸のある護国寺街です。庶民的な店が並んでいます。
溥傑と浩はよくここを2人で歩いて商店街の人たちと交流したそうです。


旧溥傑邸の向かい側の店です。溥傑や浩もこれらの店を利用したのでしょう。









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