青島旧市街を歩いていると、何やら曰くありげな神秘的な邸宅が見えてきました。

館陶路に面したエントランスは塞がれており、石積みの階段には雑草が生い茂っています。
斉燕会館の跡地と紹介されています。なんでしょうか?
今は軍事管理施設となっているようです。
歴史建築が軍に使われると退廃してしまうことはよくあります。

調べてみると、斉燕会館とは清代末期の1902年に青島に作られた中国人によるビジネス組織でした。斉人と燕人のための互助組織というわけです。会設立当初は山東会館という名前だったのが、天津人が運営に関与するようになって名前を変えたそうです。
「会館」とよばれた同郷人の互助施設は北京にもたくさん残っていますが、あれと同じです。
その後、膠州湾のドイツ租界地で三江会館、広東会館とともに青島の三大会館とよばれ、事地域経済に大きな影響を与えたとされています。

写真の奥に写っているクリーム色の建物は1922年に竣工したようです。
1938年に日本が青島を支配するようになると、施設は日本軍が接収し、興亜倶楽部と名前を変えました。
この興亜倶楽部なる施設についてはあまり文献が見つからないのですが、軍部や日本関係者などの娯楽施設だったようです。

館陶路に面したエントランスは塞がれており、石積みの階段には雑草が生い茂っています。
斉燕会館の跡地と紹介されています。なんでしょうか?
今は軍事管理施設となっているようです。
歴史建築が軍に使われると退廃してしまうことはよくあります。

調べてみると、斉燕会館とは清代末期の1902年に青島に作られた中国人によるビジネス組織でした。斉人と燕人のための互助組織というわけです。会設立当初は山東会館という名前だったのが、天津人が運営に関与するようになって名前を変えたそうです。
「会館」とよばれた同郷人の互助施設は北京にもたくさん残っていますが、あれと同じです。
その後、膠州湾のドイツ租界地で三江会館、広東会館とともに青島の三大会館とよばれ、事地域経済に大きな影響を与えたとされています。

写真の奥に写っているクリーム色の建物は1922年に竣工したようです。
1938年に日本が青島を支配するようになると、施設は日本軍が接収し、興亜倶楽部と名前を変えました。
この興亜倶楽部なる施設についてはあまり文献が見つからないのですが、軍部や日本関係者などの娯楽施設だったようです。

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