久しぶりに大連の老建築をご紹介します。
大連の捷山街の斜面に建っているゴツゴツした雰囲気の洋館です。
この一帯は日本租借時代は文化台、光風台などと呼ばれる日本人の新興住宅街でした。
租借時代の大連では珍しい石造りですので、とてもに目を引きます。
なぜ当時主流だったレンガではなく、構造的に不安定な石造りにしたのでしょうか。
調べたところ、この石造りの珍しい住宅には、世良正一という人物が住んでいたようです。
家の風格や規模からして、世良は相当に財を成した人物であったと思われます。
世良正一は1887年の広島県生まれで、東京帝大農芸化学科卒の技術者でした。
卒業後は満鉄関連の技術者として活躍したようです。
満鉄中央試験所に勤務したほか、満州重工業、満州鉱山、満州軽金属撫順工場、撫順セメントなどで要職を歴任したそうです。
そんな技術屋の経歴から、世良は自宅をこのような実験的な造りにしたのかもしれません。
古い写真が残っています。1930年代の竣工後すぐに撮影されたものと思われます。
吉良さんが住んでいた当時の室内の写真も残っています。ゴージャスです。
門構えも立派です。
こちらも当時のままでしょう。
今も民家として利用されているようです。
願わくば、一度家の中を見学してみたいものです。
大連の捷山街の斜面に建っているゴツゴツした雰囲気の洋館です。
この一帯は日本租借時代は文化台、光風台などと呼ばれる日本人の新興住宅街でした。
租借時代の大連では珍しい石造りですので、とてもに目を引きます。
なぜ当時主流だったレンガではなく、構造的に不安定な石造りにしたのでしょうか。
調べたところ、この石造りの珍しい住宅には、世良正一という人物が住んでいたようです。
家の風格や規模からして、世良は相当に財を成した人物であったと思われます。
世良正一は1887年の広島県生まれで、東京帝大農芸化学科卒の技術者でした。
卒業後は満鉄関連の技術者として活躍したようです。
満鉄中央試験所に勤務したほか、満州重工業、満州鉱山、満州軽金属撫順工場、撫順セメントなどで要職を歴任したそうです。
そんな技術屋の経歴から、世良は自宅をこのような実験的な造りにしたのかもしれません。
古い写真が残っています。1930年代の竣工後すぐに撮影されたものと思われます。
吉良さんが住んでいた当時の室内の写真も残っています。ゴージャスです。
門構えも立派です。
こちらも当時のままでしょう。
今も民家として利用されているようです。
願わくば、一度家の中を見学してみたいものです。