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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

満鉄協和会館 - 総裁・松岡洋右が就任演説をした場所

2020-10-05 | 大連を歩く
隔離中の時間を利用して、大連駐在中(2013-2016)に撮影した写真を見返してみました。
この日記でご紹介していなかった大連/旅順の老建築をご紹介します。

大連市安陽街、旧満鉄本社の隣に残る旧満鉄協和会館です。
1925年の竣工です。
満鉄建築課長だった高岩静の設計です。







これらの写真は2015年2月に撮影したものです。

協和会館は、満鉄社員のための集会施設でした。

1935年8月、満鉄総裁に就任した松岡洋右は、ここに社員を集め、最初の訓示を述べました。
当時は満州国が成立し、満鉄は鉄道付属地の行政権を奪われ、経営の在り方が大きく変わっていた時期です。

松岡は、社員に対して、すべて白紙で臨むと宣言し、経営の改革に対する意欲を見せたそうです。

松岡は、1939年までの4年間を総裁として大連で過ごしました。





大連市重点保護建築に指定されています。

松岡総裁が大連で暮らした場所はこちら(2015年3月8日の日記)です。
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大連 柴田天馬旧居

2020-08-15 | 大連を歩く
今回も東東京うさぎのモヒーさんから情報提供していただいた大連の老建築をご紹介します。

大連市南山エリアの柴田天馬旧居です。





柴田天馬(1872 – 1963、本名は柴田一郎)は、大連を拠点に蒲松齢による清代の中国文学「聊齋志異」を和訳して世に知らしめた翻訳家兼ジャーナリストです。

記録によると、柴田は東京法学院を卒業後、満鉄社員などを経て大連に居を構え、引き揚げまでの間を大連で暮らしたようです。

大連での暮らしは比較的長かったようです。

日露戦争では朝鮮新聞の特派員として従軍し、鴨緑江を訪問したこともあるそうです。

1919年8月(柴田47歳時)に発行された同書の第一巻をめくると、巻頭の筆者による序言の部分に「大連の寓居において 柴田天馬」と記されています。





すなわち、この家が「大連の寓居」だったということでしょうか。

モヒーさん、いつもありがとうございます。
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旧大連税務署長官舎

2020-07-05 | 大連を歩く
今回も東東京うさぎのモヒーさんから情報提供していただいた大連の老建築をご紹介します。

大連市南山エリアの旧大連税務署長官舎です。



南山街と高陽街の交わる場所、天正河豚のちょうど裏側に当たります。

僕は駐在中に天正河豚には食事で何度も行きましたので、この建物も覚えていますが、これが何だったというところまでは注意が届いていませんでした。

この一帯は日本の老房子を模して再建した新しい建物も多いのですが、これは紛れもなく日本租借時代の老建築です。







驕奢な住宅が多いこのエリアにあっては装飾を控えたシンプルな作りですが、角を面取りしたような柔らかい感じは、いかにも1920年代を彷彿とさせます。

しかし、大連税務署という官庁はどこにあったのでしょうか。
大連の古地図では見かけた記憶がありません。

官報をたどってみると、1938年2月3日付の官報に告示されていました。

1937年12月1日付関東局令で、大連税務署を大連市薩摩町1に置く、とされています。
薩摩町1番地は、大連市役所があった場所です。
すなわち、市役所の中だったのですね。

まだまだ大連にも知らないことがたくさんあります。
モヒーさん、情報提供をありがとうございました。

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大連天津街 東亜大旅社と永源公司旧址

2020-02-05 | 大連を歩く
大連の天津街に、同心園という日本式焼肉店があります。




邦人向けフリーペーパーに広告を出していますので、駐在員の間では知られた店です。
僕も駐在中はときどきお世話になりました。

この建物は、日本租借時代の老建築です。
古地図によると、東亜大旅社という施設だったようです。

旅社ですから、宿泊施設です。
個室がたくさんあるのは、宿泊施設の名残でしょうか。

左側に連なっている角のある建物は、永源公司という海運会社だったようです。
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大連 超高層ビルの横に佇む老建築

2020-01-15 | 大連を歩く
大連友好広場の超高層ビル・国貿中心大厦(2019年竣工予定、86階建て)の向かいに、日本租借時代の老建築がポツンと残っています。




普照街です。
1つの2階建て建物に3軒の店が連なっています。

古地図によると、日本租借時代は、右側から順に湖舟(おでん屋)、川野理髪店、松井薬局でした。
いずれも日本人経営の店です。

ファサードに配されたアールヌーヴォー風の装飾が目を引きます。

湖舟は美容院として利用されているようですが、真っ白に塗装された上に全面ガラス張りのリノベーションが施されていて、もはやオリジナルの原型は原形はとどめていません。


こちらは松井薬局の北側です。
なぜここに老建築が残っているのかは不明ですが今もしっかり現役として使われています。
今後も息長く活躍してほしいものです。
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大連民政署長官邸旧址

2020-01-05 | 大連を歩く
大連市街、丹東街と永勝街に挟まれた路地の中に潜む日本租借時代の老建築です。




東東京うさぎのモヒーさんに教えて貰いました。

この建物は、大連民政署長官の官舎だったそうです。

僕は大連に長く暮らし、街中を歩いたつもりでしたが、この建物には気が付きませんでした。

2019年10月に大連を再訪した際、見に行ってみました。

長官邸旧址は道路には面しておらず、ぐるりと周囲を別の建物で囲まれています。このため、とても見えにくくなっています。

これでは気が付かないのも無理はありません。
モヒーさん、よくこんな建物を見つけてきてくれたものです。


住宅に囲まれているため建物に入る道が見当たりません。
裏側の駐車場を整理していた若者に尋ねると、入口は丹東街側にあるはずだと言います。


この青い建物が入口でした。
この奥で老建築と繋がっているようです。

築年や設計者などの情報は不明です。

しかし、建物をよく観察すると、中山広場に現存する旧関東逓信省に似ています。

旧逓信省を設計したのは関東都督府所属の建築士だった松室重光です。
すると、民政署長官官舎の設計者も松室重光でしょうか。

あくまで仮説ですが、松室は民政署が設立された1908年から関東都督府(民政署の上部組織)に所属しています。
大連民政署は1908年に設置され、1933年に廃止されています。

そうであれば、この官舎も松室が設計したとしても不自然はありません。

長官はここから勤め先だった大広場(中山広場)の民政署まで、徒歩で通ったのでしょうか。
歩けば15分ぐらいです。

大連には、まだまだこのような日本時代の老建築が息を潜めるように残っています。
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大連 満電乗合自動車待合所

2019-10-25 | 大連を歩く
旧満電乗合自動車待合所は、青泥窪橋の中山路と旧ダルニー川が交差する場所に残る老建築です。

旧連鎖街の南東角に当たります。





古写真です。



連鎖街と一体のプロジェクトとして建設されたと思われますので、竣工は1931年頃とみられます。

古写真では、手前(南側)が4階建て、奥側(北側)部分は3階建てですが、今はすべて4階建てです。

後に増築して、高さを揃えたようです。連鎖街は、建物の多くがそのような造りになっています。

「乗合自動車」とは、つまりバスのことです。
バスの乗客のための待合スペースだったのでしょう。

この地でバス事業を経営していた満電(南満洲電気株式会社)とは、1926年に満鉄の全額出資で設立した電力会社でした。

本業の電力事業の傍ら、公共交通事業も行いました。今も大連市内に残る路面電車もこの会社が担いました。

満電は1931年に解散し、電気事業は満洲電業株式会社に、交通事業は大連都市交通株式会社がそれぞれ引き継ぎました。

大連駅が今の場所に移転した1937年以降は、この付近が市内の交通の中心地になったはずですから、バス待合所は連日乗客でにぎわったと思われます。

旧満電乗合自動車待合所の前は今もバス停として利用されており、目まぐるしくバスが往来しています。

建物は、今はスマホや土産物を扱う小さな店が入っています。

待合所としては利用されていませんが、昔も今も、バスの利用客を見守ってきた建物です。
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大連 昭和6年生まれ、名もなき橋の欄干

2019-05-15 | 大連を歩く
大連の市街地から少し南側の桃源街エリアに、古い橋の欄干が残っています。





残っているのは欄干の片側だけで、川はありません。

欄干は白雲街と桃源商城の境目に当たるので、自然な感じで風景に溶け込んでいますが、よく見ると不思議な光景です。

かつて、ここには川があったようです。

すぐ南側の自由河に流れ込む支流だったと思われます。

古い地図には、今の解放路沿いを北から南に流れる川らしき筋が描かれていますので、それでしょう。

今は埋められ、暗渠になっています。

西側の親柱には、こんな文字が刻まれています。





昭和6年というと、1931年です。

昭和6年と言えば、隅田川に架かる吾妻橋と白髭橋が同じ年の竣工です。



御年88歳、これらが同級生の橋です。



僕が通勤で毎日往復している御茶ノ水橋も昭和6年です。



御茶ノ水橋です。これも同級です。





これら3つの橋は今も活躍する日本を代表する名橋ですが、租借地の郊外で同じ年に生まれ、こうして役目を終えても遠慮がちに姿をとどめている老橋もあるのですね。

この辺りは桃源商城だけでなく、生鮮市場や水産市場、個人商店が密集しているので、非常に人通りが多い場所です。



川下側にはワンタンの有名店、共慶園があります。
こちら側の欄干は撤去されています。



橋としての役目は終えたものの、道路と駐車場と境目として使われているようです。
よくこの場所でここまで残ってきたものです。



中国大陸にして、日本の元号が刻まれた非常に貴重な遺構です。
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大連神社の二ノ鳥居跡

2019-04-15 | 大連を歩く
日本租借時代に大連に存在した大連神社の話です。

大連神社は、参道が道路として残っているだけで遺構はないと思っていましたが(2014年9月20日の日記)、実は残っていた、という話です。

これです。





いかがでしょうか。
これは鳥居の台石(亀腹とも呼ばれます)と思われます。

勝利路と解放街の交差点付近にあるので、入口から二番目の鳥居でしょう。

この鳥居の台石らしき構造物の存在は大連に駐在していたときから知っていたのですが、どうにも確信が持てずにいました。

古写真で確認できないのです。

大連神社は多くの市民に親しまれた氏神だったにもかかわらず、残っている写真は決して多くありません。

この形の台石と特定できる鳥居を写真を見つけることができませんでした。

よく見かけるこの古写真は、今の七七街付近の一ノ鳥居だと思われます。台石は円形です。この形ではありません。



奥の方に写り込んでいるのが二ノ鳥居です。

戦前に建てられた海外神社はほとんどが終戦時に消滅し、関係資料が戦後の混乱で散失してしまっているので、設立から終焉に至る経緯がわかる資料は残っていません。

この痕跡は台石であろうとは思いつつも、結局、確信が得られないまま帰国となりました。

ところが、先日、江東区南砂の深川元八幡を訪れたときのことです。

ふと鳥居の足下に目が止まりました。





いかがでしょう?

この四角形の角を面とりしたような八角形の形は、くだんの大連神社跡地とまったく同じです。

これでようやく確信に近づきました。
こういう形の台石があるのですね。

大連神社の方は、道を挟んで同じ形の土台が対をなして残っています。





やはり、この構造物は鳥居を支えていた台石と考えてよさそうです。



この鳥居の写真や建設に関する情報はないものでしょうか。

改めて調べてみました。
こんな本も読みました。



それでも、やはり二ノ鳥居を近くで撮った写真はありませんでした。

とある記録によると、大連神社は1933年に「大鳥居」が完成したとあります。この年は、昭和の造営が完了した年です。

この大鳥居がどれだったのかも判然としません。

こんな写真も見つけました。



この写真の台石の形は微妙ですが、丸形ではないようにも見えます。

これでしょうか。



台石の跡からは、鉄の杭がのぞいています。
鳥居を支えたアンカーでしょうか。

しかし、なぜ、この台石だけ残ってきたのでしょうか。
およそ役に立ちそうにありません。

ともかく、ようやく長年の謎が解けそうなところまで来ました。

八角形の鳥居の台石跡は、何かに利用されるでもなく、その生い立ちに気付かれることもなく、ひっそりと旧参道に佇んでいます。
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空から遼東半島を眺望する − 羽田ー北京フライト

2018-09-25 | 大連を歩く
先日、出張で北京に行きました。

今年3回目の北京です。
羽田空港発のJL21便を利用しました。

普段、機内では映画を観るか資料を読むか、あるいは寝て過ごすことが多いのですが、この日のフライトは気流の影響から揺れがひどく、乗り物酔いをしやすい僕は、機内食もほどほどに、外の景色を眺めて時間をやり過ごしました。

早く着いてくれないかな、と思いながらぼんやり遠くの雲を眺めていると、黄海の海上から見覚えのある半島の地形が目に入ってきました。



遼東半島です。紛れもありません。

思いがけず、第二の故郷に再会しました。
これは得をした気分です。

地図や航空写真で何度も見てきた大連や旅順が眼下に広がります。



旅順湾や老虎尾、黄金山もはっきり確認できます。

自分が親しみ、歩いてきた土地です。
多くの友人たちが眼下で暮らしています。

このフライトは旅順の南側を通過するコースを辿るようです。

高度1万メートルから見る懐かしい景色に、目頭が熱くなりました。

今後も北京に出張するときには、右側の窓際の席を指定するようにしようと思います。
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大連満鉄本社旧址の修復

2018-08-15 | 大連を歩く
大連の旧満鉄本社は、1908年に竣工した日本租借時代の老建築です(2013年6月1日の日記)。

建築から1世紀以上が経過することもあり、外壁の劣化がひどかったのですが、昨年、比較的本格的な補修工事が行われたと聞きました。

改修して大切に保存してくれるのはありがたいことですが、補修工事を経て、どんな姿になったのか、とても気になっていました。
なにしろ、大連を代表する歴史的建造物です。

今年5月に大連を再訪した際、確認してきました。

中国の建築物の改修でよく見られる、ど派手な塗装や余計な装飾が施されていませんように、と祈りながら中山広場から魯迅路を歩きます。

こんな感じでした。







いかがでしょう?

素晴らしい仕上がりです。

全面的に塗装されていますが、租借時代の古写真を参考にしたのか、補修前の質感がそのまま残されています。


(これは現役当時の古写真です)

いい仕事をしてくれました。

2015年頃に設置されていた入口の黄色い柵も撤去され、中央の社屋にも自由に近づけるようになっていました。



補修工事に関わった皆さんに感謝したいと思います。



今後は、旧大連ヤマトホテルが補修工事に入るようです。
どのような姿に生まれ変わるのか、注目しておこうと思います。
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大連カトリック教会 - 「満洲 奇跡の脱出」の舞台

2018-07-15 | 大連を歩く
大連カトリック教会(大連市天主教会)は、西崗区の高台に建つ日本ゆかりの教会です。

日系企業が集まる森茂大厦の北側の坂道を上っていったところにあります。





竣工は1926年で、設計者はカトリック信者だった岡大路、施行は名越工務店とされています。


当時の写真が残っています。

満鉄に在職していたカトリック信者により教会活動が始められたそうです。

この教会は、終戦後、150万を超える旧満州の在留邦人の引き揚げを実現するために奔走した「3人の勇者」(丸山邦雄、新甫八朗、武蔵正道)のストーリーの舞台になった場所です。

置き去りにされた在満州邦人の救済と引き揚げに使命感を燃やす3人は、1946年2月、本国を説得するため、家族を置いて決死の帰国計画を企てます。3人は絶体絶命のピンチを凌ぎながら翌月、国民党軍が管理する葫芦島から脱出に成功し、吉田茂やマッカーサーらに同胞の引き揚げを直訴します。

その際、大連に残った丸山と新甫の家族が身を寄せたのが、この教会です。

このストーリーは、丸山の没後、三男であるポール・邦昭・マルヤマ氏が著書「「満州 奇跡の脱出」(2011年)で著しているほか、今年3月、NHKの特集ドラマ「どこにもない国」として製作・放送されましたので、ご存じの方も多いと思います。





大連を離れた夫の消息が掴めぬまま、大連に残されて子どもを守りながら不安な生活を送る様子を、丸山の妻・万里子役の木村佳乃と新甫の妻・マツ役の蓮佛美沙子が好演していました。

当時、この教会で司教を務めていた米国人レイモンド・レインは、丸山ら3人の計画に理解と協力を示し、道中で役立つようにと3人に紹介状を持たせます。
この紹介状は、脱出時にも役に立ちましたが、東京でのGHQでの面会実現の決め手になりました。

あの在満邦人の大量引き揚げは、終戦と満州国の消滅に伴い、当然のこととして行われたわけではなく、彼ら民間人の命懸けの苦労と努力があって実現したのです。

大連カトリック教会は、今も現役の教会として活躍しています。





当時の写真と比較すると、左右の尖塔は、後から増築されたようです。
最近リノベーションされたのか、外観はまったく古さを感じません。

教会の内部は、こんな感じです。





72年前、万里子はこの祭壇に向かって、夫の無事と家族の安全を祈り続けました。

ドラマでは、丸山が日本に向けて大連を離れる前夜、この祭壇の前で万里子にこう語りかける場面がありました。

「神様にはいつも感謝している。君のような強い女性と出会えたことを」

万里子は応じます。

「忘れないで。弱いから祈るんです」

印象的なシーンでした。

万里子は無法地帯となったこの地で4人の子どもを守り抜かなければなりません。
ドラマでは毅然とした凜々しい姿が印象的でしたが、内心どれだけの不安と恐怖に苛まれていたかは、想像に難くありません。

僕が訪れたのは土曜日の午前中でしたが、数名の中国人信者が静かに祈りを捧げていました。



整頓をしていた中国人の牧師らしき人物は、訪れた僕に優しく微笑みかけてくれました。
レイン司教も、このように慈悲にあふれた人物だったのでしょう。

在留邦人のための教会として建設されたわけですから、決して大きい教会ではありません。
この静かで落ち着いた空間が、そのような波乱の歴史の舞台になったとは、信じがたいものがあります。

大連カトリック教会は、激動の歴史を経ながら、今も変わらず市民の心に寄り添っていました。
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地中から目覚めた大石碑 - 大連忠霊塔 鳥居建設由緒之碑

2018-06-15 | 大連を歩く
昨年(2017年)5月のことです。

大連の労働公園で庭園の改修工事中、地中から日本語の刻印のある大型の石碑が出土したというニュースがありました。
どうやら、日本租借時代に日本人が建立した石碑のようです。

大連在住の友人たちが地元での報道ぶりを教えてくれました。

興味深い話です。
いったいどんな石碑でしょうか。

先日、大連国際マラソン参加のために1年ぶりに大連を訪問した際、現場に行ってみました。

当時、労働公園は中央公園と呼ばれる市内最大の公園で、市民の憩いの場でした。
それは今も変わりありません。

石碑が見つかった場所は、公園東門のやや南側のようです。今も保存されているでしょうか?

ありました。


出土からちょうど1年が経過しますが、そのままの状態で保存され、市民に公開されているようです。

縦2.4メートル、横1.6メートルあるそうです。大きいですね。

どうやら、石碑はこの右側の台座に据え付けられていたようです。


台座を含めると、高さは約3メートルほどでしょうか。

ここから石碑を外して、そのまま真下に埋められたようです。

窪地になっていて土埃や落ち葉で石碑の一部が隠れていたので、隣にあった公衆トイレから箒を借用して取り払ってみました。






これできれいに文字を読み取ることができます。

読んだところ、この石碑は1942年に忠霊塔の前に設置された大鳥居の由来を記したものでした。

忠霊塔は、今、サッカーボールの大型モニュメントがある場所に建っていた戦没者の慰霊施設です。

どんな説明でしょうか?
ここに書いてみます。

大連忠霊塔 鳥居建設由緒之碑

関東局総長 ●●●●(注:1942年当時の関東局総長であった三浦直彦と思われます)

紀元二千六百年ヲ慶祝記念スへク大連忠霊塔表参道入口ニ大鳥居ヲ建設シ緑山ノ聖地ニ神鎮レル尽忠殉國ノ英霊ヲ慰ムルト共ニ聖域ヲ荘厳ナラシメ以テ関東州民ノ忠霊ニ對スル感謝景仰ノ念ヲ昂揚シ精神作興ノ源泉タラシメントスルハ洵ニ深遠ナル計劃タリ帝國在郷軍人會大連第四分會之ヲ發案シ関東州土木建築業協會理事長榊谷仙次郎氏ニ工事完成ニ就キ協力ヲ要請ス協會ハ三十有ニ年ノ歴史ヲ有スル舊満州土木建築業協會ノ解散記念事業トシテ意義洵ニ深キヲ思ヒ之レカ建立献納ノ議ヲ快諾ス抑々本鳥居建設ニ方リテハ忠霊顕彰會臺湾総督府及陸海軍當局ノ積極的御援助ト郷軍協會員ノ和衷協力ニ依リ時局下幾多ノ困難ヲ克服シテ樹齢二千有餘年ノ阿里山霊檜ヲ二回ニ亘リ海軍御用船ニテ大連埠頭ニ輸送シ古式ニ則リ之ヲ聖域ニ運ヒ施工ヲ明治神宮造榮工匠ニ委嘱シ昭和十七年六月一日嚴粛ニ起工式ヲ擧ケ爾来郷軍警護ノ下ニ工匠勤労奉仕者齋戒沐浴協力一致工ヲ進メ十月二十八日上棟式ヲ行ヒ十一月二十一日荘厳盛大ナル落成式並献納ノ式典ヲ擧ケ州民待望ノ大鳥居ハ関係者一同ノ赤誠ヲ表徴シテ其威容ヲ忠霊塔前ニ顕現ス興亜ノ聖戦正ニ酣ニシテ其完遂ノ前途尚遼遠ヲ思ハシムルノ秋永ク忠霊ノ遺勲ヲ偲ヒ其加護ヲ祈リ益々國民精神ヲ作興シテ天業ノ翼賛ニ邁進ス ルハ喫緊ノ要事タリ茲ニ建設ノ趣意ヲ記シテ之ヲ後世ニ傳フ


いかがでしょうか。

大鳥居の材料は、わざわざ台湾からヒノキの巨木を運んできたのですね。

大変な労力だったはずです。

樹齢二千年を超えるようなヒノキなど日本国内にはありません。
労働公園に建てられた鳥居は、日本国内でも珍しい大径長尺の立派な造りだったと思われます。

タイワンヒノキはかつて、高級木材として日本の寺社建築で珍重されてきたようですので、力の入りようが窺えます。

どんな鳥居だったのでしょうか?

古写真を探してみたのですが、探し当てられませんでした。






こんな古写真がありますが、いずれも1920年代から30年代のものですので、石碑が説明しているのはこの鳥居ではありません。

石碑が説明する鳥居は、もっと大きいかったはずです。

この後継として同じ場所に建てられたか、違う場所(もっと東側?)に一の鳥居として建てられたものと思われます。


石碑の位置から考えると、建てられていたのは、この獅子の配置されている場所だったのかもしれません。

ちなみに、正面奥のサッカーボールが忠霊塔のあった場所です。

大鳥居が建てられた1942年といえば、大東亜戦争が苛烈を極めつつあった頃です。

当時、大連の在留邦人の生活ぶりも徐々に雲行きが怪しくなり始めていたはずです。

この頃、大連で建てられた建築物はほとんどありません。古写真があまり残っていないのもこの時代の特徴です。

おそらく、ヒノキ材は関東軍が主導して国威発揚を狙い、軍の力を動員して聖地阿里山から選りすぐりの素材を運んできたのでしょう。

ちょうど同時期に建設が進められていた旅順の関東神宮と一体的なプロジェクトだったのかもしれません。

大鳥居の建設に関わったとされる榊谷仙次郎(1877~1968)は、満洲における土木建築業者の中心的な人物として活躍した人物で、「満洲の土建王」との異名もありました。

碑文によると、満州土木建築業協会は1942年に解散されたようですが、この事実も戦時色が濃くなり、満洲における土木建築の需要が減っていたことを窺わせます。

おそらく、石碑の裏面にも何らかの文字が刻まれていると思われますが、さすがに掘り起こすことはできません。

さて、この石碑ですが、いつ頃埋められたのでしょうか。

ネットによると諸説あるようですが、僕は、文革の1960年代以降と推測します。

侵略の象徴である忠魂塔でさえ1970年代まで破壊を逃れて残っていたという記録がありますので、それより目立たないこの石碑がそれ以前に処分されるとは考えにくいと思います。

文革では、大連でも侵略や外国文化を象徴するようなモニュメントを次々に処分していく必要に迫られたはずです。しかし、このような大きな石塊は、破壊するにも運搬するのも容易ではありません。
そこで、関係者はいっそ倒して埋めてしまおうと考えたのではないでしょうか。


それにしても、重要な歴史を語る資料が出土したものです。

この石碑がこの後どのように扱われるのか不明ですが、石碑を囲む東側と南側の法面がコンクリートで補強されていましたので、公園としては保全する意思があるということでしょう。

ところで、今回石碑が地中から発見されたわけですが、鳥居そのものはどこに行ったのでしょうか。
利用価値の高い高級材の丸太ですから、解体後に即廃棄したとは思えません。捨てられずに再利用された可能性は十分あると思います。

国交回復後に大連を再訪した在留邦人の話によると、1984年に目撃した大鳥居は、上部を切り取られ、2本の棒だけが赤く塗られた状態で残っていたそうです。

その後いつ撤去されたのかは分かりません。

今も大連市内のどこかで、形を変えてひっそりと活躍しているのかもしれません。

このように、タイワンヒノキを利用した寺社建造物は、今の日本にも現存しているようです。

次回の日記では、タイワンヒノキを使った都内の木造建造物文化財を訪ねてみようと思います。
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世良正一旧居 - 石造りの洋館

2018-01-25 | 大連を歩く
久しぶりに大連の老建築をご紹介します。

大連の捷山街の斜面に建っているゴツゴツした雰囲気の洋館です。






この一帯は日本租借時代は文化台、光風台などと呼ばれる日本人の新興住宅街でした。

租借時代の大連では珍しい石造りですので、とてもに目を引きます。

なぜ当時主流だったレンガではなく、構造的に不安定な石造りにしたのでしょうか。

調べたところ、この石造りの珍しい住宅には、世良正一という人物が住んでいたようです。

家の風格や規模からして、世良は相当に財を成した人物であったと思われます。

世良正一は1887年の広島県生まれで、東京帝大農芸化学科卒の技術者でした。
卒業後は満鉄関連の技術者として活躍したようです。

満鉄中央試験所に勤務したほか、満州重工業、満州鉱山、満州軽金属撫順工場、撫順セメントなどで要職を歴任したそうです。

そんな技術屋の経歴から、世良は自宅をこのような実験的な造りにしたのかもしれません。

古い写真が残っています。1930年代の竣工後すぐに撮影されたものと思われます。




吉良さんが住んでいた当時の室内の写真も残っています。ゴージャスです。


門構えも立派です。
こちらも当時のままでしょう。

今も民家として利用されているようです。
願わくば、一度家の中を見学してみたいものです。

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旧大連ヤマトホテル - 初めての宿泊

2017-06-16 | 大連を歩く
先月、大連を再訪した際、大連賓館(旧大連ヤマトホテル)に宿泊してみました。

旧大連ヤマトホテルはこの日記でも何度かご紹介しましたが、自分が宿泊するのは初めてです。



1914年開業、大連随一のクラシックホテルです。
花崗岩を積み上げた壮麗な外観は建築当時の姿をとどめています。



ホテルの開業後、溥儀や与謝野晶子夫妻、リットン調査団、毛沢東、鄧小平ら多くの著名人や国賓、欧米人がここに宿泊しました。

1945年8月22日、進駐してきたソ連軍と関東州庁との間で大連の明け渡しの調印式が行われた場所でもあります。
その後数年間、ソ連軍司令部として活用された歴史も持っています。

満鉄が関東州と満州各地で経営したホテル群の旗艦店だったこのホテルは、単なる宿泊施設を越えたシンボル的な意義があったと思われます。

世界に知られるコスモポリタン都市になりつつあった租借地大連で、ヤマトホテルは日本が世界に高い格式と存在感を示すショーウインドウとしての役割を担いました。

このため、設計から施工、仕上げに至るまで入念な工事が行われました。

サービス面も欧米ホテルに負けない一流な施設とサービスを追求しました。



今回、僕が宿泊したのは409号室です。
北側の解放街に面したシングルルームです。

この部屋には、この100年間でどんな部屋が宿泊してきたのでしょうか。





客室は、1987年と97年に改修されていますが、1世紀を超える時間を経ているため、設備は現代的なホテルとは異なります。



北側(解放街)から見たホテル外観です。この写真の最上階右上から2番目の小さな窓の部屋が409号室です。

階ごとに窓枠のデザインに変化を持たせるなど、手が込んでいます。日本人が手掛ける西洋建築として、実験的な要素もあったのでしょう。

現在の部屋数は76室ですが、ヤマトホテル時代は115室だったそうです。この差は客室の面積を拡張したことや、テナントとして長期貸し出しをしている部屋との差でしょうか。

廊下が広く、シックな装飾や使い込まれたカーペットには重厚感があります。

朝食に案内されたのは、ルネサンス装飾のボールルーム「友誼宮」です。

満鉄や関東州庁、関東軍関係者など数々の社交の場となってきた天井の高い大宴会場です。

かの李香蘭もここで美声を披露したことがあるそうです。



ここも歴史の舞台になった宴会場です。

ここで朝食を取る宿泊客は少ないのか、利用客は僕1人でした。



永い時の流れを感じつつ、1人で日曜の朝食をのんびり楽しんでいると、暇を持て余したのか、給仕のおばちゃんも厨房に近い席に腰掛けて食べ始めました。

今朝の客は僕1人だったのかもしれません。こういう時間もよいものです。



2階のカフェテリアからは、中山広場のラウンドアバウトが一望できます。テラスに出ることもできます。



2階のテラスから3階方面を見上げてみます。



テラスに出て東側を見ると、旧大連市役所が目に入ります。

ところで、清岡卓行の著書「大連小景集」によると、このホテルの奥の方から、天津街にかけて広がる巨大な地下壕の入口があったそうです。
清岡は、1983年、35年ぶりに大連を再訪した際、外事弁公室の案内でこの地下壕を歩いたと記しています。

朝食後にそれらしい場所を探してみましたが、見当たりませんでした。

この地下壕は、2万人を収容する広大な空間なのだそうです。

駐在しているときから探していましたが、結局探し当てることができませんでした。

東北を代表するクラシックホテルとはいえ、格付けは三つ星ですので、宿泊料は格安です。

大連を訪問する際は、記念に一度宿泊してみることをお勧めします。



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