メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

リリイ・シュシュのすべて

2006-10-10 22:55:27 | 映画
「リリイ・シュシュのすべて」(2001、146分)
監督・原作・脚本: 岩井俊二、撮影: 篠田昇、音楽: 小林武史
市原隼人、忍成修吾、蒼井優、伊藤歩、大沢たかお、市川実和子、稲森いずみ
 
インターネットのBBS(掲示板)で一般の参加者とのやり取りから物語を展開させ、岩井俊二がインターネット小説とし、そこから生まれた映画とのことである。
 
だから、始まりから、途中で何度も、この何人かの書き込みが画面に続いてあらわれる。それは最後、ああそうだったのという謎解きの一翼も担っている。
 
それはそうだとして、岩井俊二の映画はこれと「花とアリス」だけしか見ていないが、それにしても救われない話だ。
 
栃木県足利の中学、1年に入った市原と忍成、何かポジションが定まらない前者ととりあえず優等生の後者、剣道部、音楽の合唱部(?)、そして放課後、中学生によくあるといわれる非行、いじめが出てくる、それは次第にエスカレートし、かつあげした金で沖縄に旅行したのち、忍成は頭目にのし上がり、いじめは前よりひどくなって目を覆うばかりになる。
 
男子より女子によるいじめの犠牲になる伊藤歩、援助交際に走るがむしろそのことで皆から距離を保つ蒼井優。
 
中学生というのは自らの経験としても、思い出してもよく理解できない何か変な時期であり、作家としての岩井俊二が関心を持ったのは理解でき、それをルポし、ドキュメンタリー映画のような姿にした、それも理解できる。
しかし、作ったのも大人、そして映画というかなり多くの人が見るメディアで、この閉塞感のままというのは、うなづけない。
 
理解できない、でも実態はそう、そういうことを見る人たちにわからせたかった? 
そうだとしても、それならドキュメンタリーにするか、フィクションなら雑誌にでも書けばいい話だ。
 
教師は何度も出てくるが、彼らとの葛藤も実はない。また沖縄で登場する大沢、市川、とても自然で妙にうまいのだが彼らと少年達との間には何もなかったに等しい。
 
こういうアンファン・テリブルというと文字通りジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」が思い浮かぶけれども、こっちは少年少女だけで閉じこもっているとはいえ、彼らなりの心理ドラマはあり、その恐ろしさが大人たちに突き刺さるわけである。だからそこに窓は開き、そして悪は処罰される。
 
この映画は心理以前の、空気でしかない。
音楽にドビュッシーのピアノ曲が多用されているのはそれにぴったりなのだが。
 
そこで蒼井優、このとき15~16歳、これはほとんど映画デビューに近い。彼女も他の子供達と同様、劇のせりふというよりは普段の会話を拾われたような感じではある。しかし他の出演者がそういうレベルで監督の期待どおりであるのに対し、彼女はどこかその上を行っているように思えてならない。
 
援助交際の前後、市原にあたり沼に飛び込む場面、凧揚げに加わる場面など、こういう子供達の中にもどこか「生きている」子がいることを、結果として少し感じさせてしまう。
岩井に言われたのではないだろう、自分だけ目立とうというのでもないだろう。しかしこの役を演じていくと彼女なりにこうなった、それを岩井も否定は出来なかったのではあるまいか。彼は彼女を天才というが、それはこういうところなのだろう。 
 
彼女がこの映画から外へのかすかな出口を作ったというのは贔屓目かもしれないが、唯一の救いはここにある。

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フラガール

2006-10-07 23:20:43 | 映画
「フラガール」(2006、120分)
監督・脚本: 李相日、撮影: 山本英夫、美術: 種田陽平、音楽: ジェイク・シマブクロ
松雪泰子、豊川悦司、蒼井優、岸辺一徳、富司純子、池津祥子、徳永えり、山崎静代、高橋克己、三宅弘城、寺島進
 
劇場で見ることにしたのは、蒼井優のダンスを大スクリーンで見たかったからだが、全体として期待以上の出来であった。
だが、多少の不安として、二つあった。
 
一つ、時は昭和40年、常磐炭鉱の経営が危なくなり、地域の人たちが食べていくために出てきたプロジェクトが、温泉とフラダンスの「ハワイアン・センター」。ただでさえ日本のあまりきれいとはいえない風景、それにこの一見国辱的といえそうな発想と名称、普通なら貧乏ったらしい映画を予想する。事実これまで多くの映画にはそれを感じていた。
がしかし、それは単に製作が下手だった、演者が下手だったということにすぎないということが、今回よくわかった。幸いこの話、実話に近いのだが、外から持ってこられた事業とことなり、このプロジェクト自体が地元で自前で進められたということ、これが大きい。
それに、脚本、カメラ、音楽、そして東京から流れてきたダンスの先生(松雪泰子)以外はいわき弁の演技、皆自然であり、しかも生きている。
日本映画はついにこのレベルに達した。
 
二つ目、「ウォーターボーイズ」(2001)、「スウィングガールズ」(2004)に続く柳の下3匹目のどじょうで、白けないかということ。話のはじまり、次々に現れる困難、多くは予想どおりなのだが、そしてそんなに困難とも思われないのだが、脚本に書かれた役それぞれの一所懸命さ、俳優の集中、特に通常よりは長くまわすカメラ、など、結果として満足いくものになった。
 
松雪泰子は、最近TVでもそれほど演技を見ないけれども、役柄もはまり、演技も説得力がある。解雇された父親と一緒に夕張に行く子(徳永えり)を抱きしめて見送り、かっこつけに使っていたサングラスをあげてしまうシーンがいい。ここで彼女は鎧を脱ぐことになる。
蒼井優の親友役徳永えり、母親役の富司純子、事業推進役の岸辺一徳は特にうまい。
 
そして蒼井優である。実は「花とアリス」(2004)の最後で日本映画の奇跡とまでいわれるあのバレエをやり、今度はちょっとちがうフラに挑戦といってもどうなのだろうか、という不安はあった。TVのインタビューでは、フラはバレエとまったく違うと言っていたし。
まったくの素人が一から習う設定であるから最初は我慢の演技でもあったかもしれないが、母親と喧嘩して家を出てしまい、練習所で夜踊っていると、母親が郵便を届けに来る。それを種に母親は言葉をかけることになったかもしれない、しかしそれを知りつつ黙って彼女は踊り続ける。
ここで蒼井優は、これは「映画」でありここでどういうアクセントをつけなければならないかがわかっていた。変な言い方だが見る方からすれば富司純子を黙らせてそのまま帰すわけである。だから蒼井優はダンスを一つギアアップするのであるが、そのほれぼれするほど見事なこと。
もちろんラストのハワイアンセンター・オープンのダンスシーンも当然素晴らしいし、松雪泰子とのからみも引き込まれてしまう。例えばバスの中の会話、電車と反対側のホームでフラで手話をやるシーン。
 
稀代の大女優になる予感。
 
今ウクレレで評判のジェイク・シマブクロの音楽が素敵、スペクタクルではない日常の場面でのサラウンド音響の使い方がうまい、ということは指摘しておくべきだろう。

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エターナル・サンシャイン

2006-10-01 22:48:18 | 映画
「エターナル・サンシャイン(Eternal Sunshine of The Spotless Mind)」(2004米、107分)
監督: ミシェル・ゴンドリー、脚本: チャーリー・カウフマン
ジム・キャリー、ケイト・ウィンスレット、キルステン・ダンスト、マーク・ラファロ、イライジャ・ウッド、トム・ウイルキンソン
 
ある男(ジム・キャリー)と女(ケイト・ウィンスレット)がうまくいかなくなり、女はなんとその男に関する記憶を消してくれるという会社に仕事を頼み、その通知が男に来る。男は何故かそれならと自分の彼女に関する記憶を消してくれるように頼む。しかしその作業中に男は脳内で記憶を消されないよう戦い始め、それを追いかける会社の博士と、記憶の中に現れ彼と一緒に戦い始める彼女、多くは記憶の中の映像として描かれるそのストーリーは思いのほかよく出来ている。
 
こういうSF的なものは本来あまり好きではないのだが、記憶の中での戦いは、それでもひき込んでいく魅力をもっている。
 
実をいうと半年ほど前にDVDで見たときにはわからず、次の日に日本語吹き替えで見て、ようやくなんとかわかった。今回もう一度見てみようと思ったのは、ひとえに脚本がチャーリー・カウフマンだということにある。 
 
本質から外れるが、こう思わせてしまうから大したものである。この作品もなかなかのキャストであるが、彼の脚本だから出演したということもあるのだろう。
「マルコヴィッチの穴」(1999)、「コンフェッション」(2002)、「アダプテーション」(2002)とくれば、それもそうだろう。
 
この作品はどちらかというと「マルコヴィッチの穴」をもっとメロドラマにした、でもそんなにブラックではない、といったところだろうか。それでも、記憶の中にいいも悪いもあるが、好きになったという記憶がそんなに簡単に消えてしまうことはなく、意識的な能動的なものによってよみがえり、新しい展開に進んでいくという希望を提示している。
 
彼の脚本は前の2つで、作家としても社会的にも「自分の作家としてのスタンスは」というところが強すぎて、ちょっと引いてしまったが、今回は入っていける。
 
ジム・キャリーは今回まったくコメディアン的なものはなく、気弱な男をベースとした設定を、我慢強く演じている。考えてみると、こういうスイッチで代わってしまうとか、記憶喪失とか、二重人格とか、仕掛けを含んだ主人公を演じたことは多い。
「マスク」(マスクで)、「ライアー・ライアー」(子供のお祈りの奇跡で)、「トゥルーマン・ショー」(生まれと時からスタジオで)、「二人の男とひとりの女」(二重人格で)、「マジェスティック」(記憶喪失で)など。それと違って、脳にICチップを埋め込んでそれから逃れるためのストーリー展開も物理的、というようなものになると、結果として大した話にならない。今回の設定はぎりぎりというところだろう。
 
ケイト・ウィンスレットは「タイタニック」では、特に日本では、あまり評判良くなかったが、多少太いかどうかというのは別にして、実にいい女優に確実になっている。
 
そのほか、キルステン・ダンスト(「インタビュー・ウイズ・ヴァンパイア」の子役)はやはりなかなか、トム・ウイルキンソンも「理想の女」のタビィ同様、無理のないうまさであった。
 
この題名はなんだろう。「無垢の記憶の永遠の陽ざし」とは、、、
人間の記憶というものへの信頼なのか賛辞なのか。
そういえば「マルコヴィッチの穴」の最後もブラックではあるが何か明るく肯定的なものであった。
この映画、レンタルでの人気は今でもかなりなもので、それは納得出来る。

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