メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

マーラー「復活」(メータ)

2011-03-20 22:00:08 | 音楽一般

昨日ようやく「ばらの騎士」を見てここに書いたけれども、3月11日(金)の東日本大震災以来、観たり聴いたりという気がおきず、もっぱらTVで震災のニュースを見て、そろそろ寄付でもしないと、と思うだけで、外出も少なかった。
当時は都心にいて、いろいろあって3時間ほど歩き、動き出した私鉄を乗り継いで深夜といってもそれほど遅くない深夜に帰りついたという多少の帰宅難民を味わっただけなのだが。
 
そういう中、今朝の日本経済新聞に指揮者ズービン・メータの談話が載っている。メータはフィフィレンツェ歌劇場を率いて来日していて地震を体験し、できればこういう時だからこそなんとか公演を続けたかったが本部からも離日の命令があり、自分だけでもどこかのオーケストラに客演してチャリティーをやるという試みも結局実現しなかった。
 
それでもこういう時の音楽の力は信じていて、豪奢なオペラはともかくバッハのカンタータ、ベートーベンの「英雄」、モーツアルトの40番などの力、悲劇的状況下の人々に放つメッセージの強さを過小評価してはならないと、メータは説く。
 
1991年の湾岸戦争時、ニューヨーク・フィルをキャンセルしてイスラエル・フィルと連続演奏をしたとき、最後がマーラーの「復活」だったそうだ。

それもあって「復活」を聴いてみた。そうまさにメータの指揮、ウイーンフィルの演奏である(1976年)。
演奏の素晴らしさは記憶どおりだが、歌詞の部分をよく読むと、これは復活を願うというより「復活するぞ」であって、こういう機会にふさわしい。一見あまりにもはまりすぎていてこういう時にはどうかという曲もあるなかで、この曲は違うような気がする。
天国にいこうと道をたどっていると、天使がひとりあらわれ私を追いはらおうとした、私は引きさがりなどしなかった、神から出たものはふたたび神にもどるのだ
生きるために死ぬのだ、よみがえる そうよみがえるのだ
 
思えば、日本フィルハーモニーが解散するとき、最後に小澤征爾が振ったのはこの「復活」で、目の前で聴き、今も放送を録音したオープンリールテープを廃棄するときにダビングしたカセットテープがまだ残っている。
 
ところでこのメータの「復活」、持っているのはCDではなく、35年経ったLPレコードである。少しパチパチ音はでるけれども、それは想定内なので気にならないし、10年前に最後の贅沢としてカートリッジをシュアーV15にして以来、安定したトレースで隅々まで音を拾って再生しているような気がして気持ちがいい。
それに、これはその後ユニバーサルに吸収されてしまった英デッカの録音である。当時のここの録音は特にLPレコードで聴くとほかのものより数段上で、このところの「断捨離」である程度処分したときも、英デッカの録音というだけで残したものが多い。マーラーではこれとショルティ指揮の第7と第8、いずれもCDと比べても遜色ないどころか、味わいは深い。

メータの話にもどると、この人がまだ駆け出しのころ、その名前を中学校のころだったか自分で作った真空管ラジオでFENのクラシック番組を聴いていた時にはじめて耳にした。だからもう彼のキャリアも長い。この談話も当然しっかりした人のものである。


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ばらの騎士 (メトロポリタン・オペラ)

2011-03-20 15:37:40 | 音楽一般

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」
2010年1月9日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、2011年2月20日(日)NHK BShi 放送
指揮:エド・デ・ワールト、演出:ナサニエル・メリル
ルネ・フレミング(マルシャリン)、スーザン・グレイアム(オクタヴィアン)、クリスティーネ・シェーファー(ゾフィー)、クリスティン・シグムンドソン(オックス)、トマス・アレン(ファーニナル)
 
このところオペラは実演はもちろんビデオでもあまり見ていないのだが、2月下旬にメトロポリタンの演目がいくつか放送され、そのうちいくつか録画しておいた。年末に地デジ対策と同時にHDDブルーレイ・レコーダーを買ったので、こういう長尺ものを録画してみるのは楽である。
 
いまさらいうのも変だけれども、この間のオペラ録画の進歩は著しいようで、演奏よりなにより、音がダイナミックレンジ、バランスとも格段に良く、また精細度が高く奥行のある画面が音楽に見事にあったカメラワーク・編集とともに、疲れないで、しかも味わいやすいようになっている。
もっともこれは媒体およびこちら利用者側の機材の進歩と無関係ではないようで、80年代後半、カラヤン晩年のものなども最近DVDで見ると、以前よりレベルが高くなったように受け取れる。この人の将来を見通す眼はやはり並ではなかったということだろう。
 
そういう条件のなかで、ルネ・フレミングのマルシャリン、これは現在評判ということは知っていたがおそらく史上もっともすばらしいマルシャリンではないだろうか。声がきれい、姿もきれい、品もあり、このはしゃいだ開幕からしだいに忍び寄る歳の、時の流れの影に対する不安、諦めと決心、、、これらも見事。
 
スーザン・グレイアムのオクタヴィアンも歌唱、演技はいい。がこの17歳という設定のズボン役としてはちょっと体格が良すぎる(特に身長が)。もっともオックスのシグムンドソンが巨人だからこの人との対照からは変ではないのだけれど。 
 
ゾフィー役は可愛く、純朴であればいいのでシェーファーは可もなく不可もないというところ、ただ表情が神経質に見えるのがちょっと難。
 
衣装、装置はヨーロッパであれば違う色調になったと思う。例えば紫、モスグリーン中心とか。やはりアメリカという感じ。
 
指揮のエド・デ・ワールト、風貌を見ると、このオペラのように「時の流れ」が主役という感はがする。若くしてデビューしたこのオランダ人、最初のレコードは確か小さいオケを指揮したモーツアルトで、そのころの写真は白いTシャツのいかにも今風の若者といった感じだった。彼の指揮でスムーズに流れるオーケストラの華やかな音は、こういうカウチでの鑑賞にはぴったりだ(皮肉ではなく)。
 
「ばらの騎士」を舞台で見たのは、最初が1977年パリ・オペラ座でシルヴィオ・ヴァルヴィーソの指揮、1984年に来日したバイエルン国立歌劇場でカルロス・クライバーの指揮、この2回だけで、あとはクライバーがこのあとウイーンで振ったビデオだろうか。カラヤンの2つはLDで出たときともかく買っておいて持っているけれどもまだ見ていない(いずれ見よう)。
 
最後の全員が去った舞台に、マルシャリンのお小姓モハメド(子役)が出てきて何かを探し回りマルシャリンのハンカチを見つけて去っていく、この場面がある。これなんだろうとずっと考えてきたが、自分の時代が終わり、次の世代の時代になることを受け入れて去るけれども、なにか忘れ物風に残していきたい、大切なものを、とい象徴なのだろう。
 
幕間でかのプラシド・ドミンゴが女声にインタビュー、女性のだれだかが男声(オックス)にインタビューしていて、これも楽しめるし役に立つ。たとえばこのオペラ、最初は「オックス男爵」というタイトルだったそうで、それをシュトラウス夫人がそれでは売れないと「バラの騎士」に変えるよう進言したという。それはもっともで、オックスの歌、演技、風采が立派でないとこのオペラは成り立たない。この人の退場とマルシャリンの退場の、共通する意味がありながら違う味わいを醸し出すのもそうだし、若い二人に追い出されても、必ずしも二人だけが受け入れられるというわけでないという余地を残すためにも。
 
そういう意味では、この演出はヨーロッパ流のそこはかとないペーソスには不足したが、最後のオックスを追い出そうという騒ぎの中、若い二人とマルシャリンをほとんど静止させていたのは、単なる追い出し劇ではないということをしっかり出していた。


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