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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2

2006年05月29日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
諏訪神社には、金山神社と云う衛星の神社を持っております。
諏訪神社その2では、金山神社を廻ってみました。

漁業納畢之碑
「漁業納畢(のうひつ)之碑」は、大森海苔の養殖が江戸時代から幕府の許可を得て江戸湾内に漁業を行い、明治時代には漁場を拡大し拡張しつづけました。昭和14年(1939年)には、時局に応じ、京浜運河計画により漁業権の大部分は東京府に買い上げられたが、戦後になって運河計画は白紙となりました。昭和24年(1949年)に新漁業法が成立し、東京湾岸海苔漁業者は再び漁業権が復活しました。
しかし、戦後しばらく続いた大森海苔の伝統は、昭和30年(1955年)代になると、漁業環境は悪化とともに再び東京港の港湾整備計画が浮上して、昭和37年(1962年)12月に東京港の改修と引き換えに、300年にわたる海苔養殖業に幕をおろすこととなり、輝かしい終焉を記念して「漁業納畢之碑」(碑文)が昭和39年(1964年)に建てられたのです。

漁業納畢之碑

諏訪神社周辺は吾が学びやの地
前回にも記述しましたが、子供たちが通学した元大森第二小学校(現開桜小学校)の他に、元大森第六小学校(学童数減少により開桜小学校と統合、跡地は現在大田区区民活動支援施設こらぼ大森として活用)と大森学園(元大森工業高等学校)があり、さらに、戦前に通園した日新幼稚園の跡地は諏訪神社の隣にありました。

前回に続き、諏訪神社参詣の順路(順路図再掲参照)に従い、諏訪神社の境外末社の金山神社に向かいます。諏訪神社の鳥居を出て、南北に走る通路の北方を見ると元大森第六小学校の校舎跡の建物(地図④)が見られます。ここに、入居している「こらぼ大森」については何れ先に記述したいと思います。一方、通路の南方には、日新幼稚園の跡地(地図⑤)は現在住宅が建ち並んでおります。これから進む内川沿いにある金山神社の対岸には、元大森工業高等学校(地図⑥)が見えます。
幼稚園から高等学校時代につきましては、別のカテゴリーの「大森町界隈あれこれ 大森町の学びや」で記述する予定です。

諏訪神社境外末社 金山神社
金山神社は、諏訪神社南方の内川沿いにあり、境外末社として金山彦大神(カナヤマヒコノオオカミ)を祭ってあります。

金山神社の由来
この地は、北条氏以来、数度の古戦場にして、幾多の遺跡と共に、付近諸所に、大小古墳の散在せるも、いつの頃か崩壊して、今は残存せるもの、殆ど稀なり。案じるに、これなる古墳の中には、彼の上代民族にかかわるものあるべきも、あるいはまた、当時の土民が、戦没将士の屍を葬り、塚を築きて、もって、その例を祀りしもの、尠からざるべきは、推定に難からざるべし。
その古墳、今なお原型を存して、今日に到しは、いろいろの神秘的伝説と共に、古来小祠を設けて、金山大神を斉し、もって土民の信仰を結んだため、幸いに、その崩壊をまぬかれた。現に今存在するところの、金山神社古碑は、元禄年間の物たるを見ても暸かなり。
爾来、幾星霜、今や後古墳上は、雑木の繁茂するに任せ、小祠もまた頽廃するに至れしが、隅々、今次大東京市域拡張に当り、本町の有志、神社を中心とする諏訪会を発起し、その事業の一として、墳域を整備し、社祠を改築し、もって古墳を永遠に保存し、敬神の実を挙げんとす。その由来を記して、後代にのこす。
続く

前回 大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1
次回 大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3 
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