十間坂からすぐそこ、もう南湖の立場です。
南湖(「なんご」と、"こ"に濁点を附けて読みます)は南郷とも書かれたそうです。此処は茶屋が立ち並ぶ大きな立場で、茶屋本陣や脇本陣が置かれ、大名も休息するほどの賑わいだったとのこと。馬入川を控えての休憩場所に丁度よいという立地条件も、此処が繁栄した大きな理由でした。
名物は「ひしこの鱠」「松露の吸い物」「アワビ」、そして江戸屋(茶屋)の大きな「あんこう(おはぎ)」だったそうです。
牡丹餅立場からこの南湖の立場にかけては、江戸時代は海岸に沿うかたちで東海道が通っていたため、砂が舞って大変だったようです。全身、砂埃で白っぽくなって、名物の牡丹餅やあんこうを食べたら、口の中にも砂が入り込んでシャリシャリ…。
当時、此処を通って江戸へ下った勅使の旅行記にも、そんなことが書かれているようです。松並木は日差しをさえぎるだけではなく、防砂林も兼ねていたのですね。効果はそれほどでもなかったようですが。

広重の浮世絵を見ると、松並木が描かれ、左に富士山、街道沿いに立ち並ぶ茶屋が描かれています。さあ、現在の南湖の立場と左富士はいかに!

南湖の立場に入ったと思われますが、特に案内板があるわけではありません。しかし雰囲気ある家屋。当時の茶屋や旅籠の名残でしょうか?南湖の茶屋は2階建てだったとも。こういった家屋が街道両側に続いていたのでしょうね。

そして名所、南湖の左富士のポイントに到着。上方に向かって歩いていくと、いつもは街道の右側に見える富士山が、道の湾曲によって此処では左側に見えるという数少ないスポット。
さあ、いざ望まん、現代の左富士!
…って意気込んだものの、曇り空ではないかえ?
う~ん、真源寺で旅の無事を祈願した折、晴天も一緒に祈っておけばよかったのか。というか、道中、いくつもお寺や神社に立ち寄ったのに、一度も祈らなかったのは甚だ迂闊であることよ。
ならば。
今こそ、イマジネーションを起動させよ!HIZAKURI隊諸君。
目を閉じてみよう。
ほら、まぶたの裏に。
広重の左富士が、北斎の赤富士が、銭湯の富士山が…次々と浮かんでくるであろう!
HIZAKURIとは体力と知力と想像力の(…&美味なる酒の)素晴らしき融合なのである。

南湖の左富士の碑の向かい側には、鶴嶺八幡宮の大きな鳥居があります。ここから参道が続いていくようですが、何しろ先を急ぐ身なれば、気になりつつも断念して通過。
けして早く平塚宿に入り酒を飲みたいから…ではない。
-H-
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