
美味しい蕎麦を堪能した一行が、次に向かったのは早雲寺。
北条氏5代のお寺として有名ですが、私は初めて訪れました。箱根湯本の町中にあってビックリ。私のイメージでは、箱根のもっと山奥の渓谷とか、山の中腹とか、そんなところにあるんだろうなぁというイメージだったので。何かと勘違いしている?
早雲寺は臨済宗のお寺で、北条早雲の遺言により、2代目氏綱が創建しました。秀吉の小田原攻めでは、一夜城が完成するまでここが本陣とされたそうです。なんか皮肉な運命。しかも、小田原城が陥落すると焼き払われたとか。秀吉の世が終わり、江戸時代になると再建が許されています。

で、訪れたこの日、お寺は修復中。入ってもいいのかなぁ?という雰囲気でした(一応、拝観者の為の「通路」は確保されていました)。作業はしていませんでしたが、本堂はじめ、あちこちが立ち入り禁止。是非に及ばず。せめて北条氏5代のお墓だけでも見ておきたいものです。

立ち入り禁止の本堂。本来なら拝観できるの?と思いきや
拝観謝絶
って入り口に出ていました。
これは工事に関係なくってこと?
襖絵とか書画など貴重な文化財が多いそうですが、一般公開しているのかな?

本堂はこれ以上詮索しても仕方ないので、以前にここを訪れたことのあるM隊長とW隊員のあやふやな記憶に導かれ、北条氏墓所を目指します。その途中にあったのが、山崎の戦いで戦死した遊撃隊隊士の墓。ここに墓を建てたのは遊撃隊第一軍隊長・人見勝太郎(寧)。
彼も函館五稜郭まで転戦し、新政府軍に抵抗を続けました。降伏後ほどなく赦免され、静岡で徳川宗家に仕えたのち政府に出仕、最終的には茨城県令まで出世しました。その後、実業家に転身して利根運河会社を設立し、初代社長に就任しています。
政府の役人となっても、実業家として名を成しても、やはり遊撃隊時代のことは頭を離れなかったのでしょうね。

さて、お目当ての北条氏墓所です。寺域の奥にひっそりと、でも、どこか威厳をたたえた雰囲気です。

初代早雲から5代目氏直までのお墓が整然と並んでいます。江戸時代になってから、1万石という小大名ながら家名を存続させていた北条氏治(ほうじょう・うじはる)によって建立された供養塔なのだそうです。
やはり北条氏には小田原が似合う。供養するなら小田原近辺、早雲寺をおいてほかに考えられませんね。きっと氏治も同じ思いだったのでしょう。ちなみに、氏治の領地(狭山藩)は、小田原から遠く離れた河内国(大阪府)。
そうそう、この氏治、家督相続時にひと悶着あったそうです(氏治は先代=従兄弟に子がいなかったため、養子に迎えられていました)。それまでに一度も将軍に拝謁したことがなかったことや、無官位であったことを理由に、彼の家督相続に反対をしたのが、小田原藩主で老中・稲葉正則だったそうです。
かつて小田原を本拠にしていた北条氏と、現在の小田原城主の正則。正則にどんな思惑があったのかわかりませんが、なにやら因縁を感じますね。こういったエピソードにも歴史の面白さが。まぁ、氏治はじめ北条家中にとっては面白いどころか、迷惑千万だったでしょうけど。それでも最終的には家督相続が認められたそうです。めでたしめでたし。
-H-
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