ちょっと時間はかかったものの、御朱印をいただいてほくほく顔のM隊長を先頭に信隆寺を出発、馬入川へと向かいます。
このあたりの地名は今宿。南湖の立場のはずれですが、馬入川の川止めに備えて、旅籠などの宿泊施設があったのでしょうか?江戸時代よりも、もっと前から宿場的な位置づけの村落だった可能性も大いに考えられます。
ちなみに気になって調べてみたところ、今宿村が最初に文献に現れるのは1624年のことだそうです。隣の中島村(現在も中島の地名が残っています)の本宿に対して、新しい宿、今宿と改称したとのことで御座候。
参照 ; タウンニュース茅ヶ崎版
また、我々が携帯しているガイドブック兼地図(HIZAKURI隊のバイブルです)には番屋という地名も見られます。馬入川の渡しの番屋(不法渡河の見張所?)が置かれていたことに由来するとしか思えませんが、どうでしょう?
ちなみに番屋の地名が出ていない地図も多いようです。よっぽど小さな字名なのか、すでに消滅してしまった地名なのかもしれませんね。
ん?すでに使われていない地名だとしたら、我々のバイブルは、いったいいつの地図なのだろう?
それはそれとして。
いよいよ馬入川を渡河し、平塚へ入ります。正確には川のすぐ手前から平塚市なのですが…。
相模川は、河口付近のみ馬入川と名を変えます。源頼朝が相模川の橋で落馬した際、その乗馬が川にまで乗り入れたから云々…とは、馬入川の名の起こりの伝承です。
江戸時代、馬入川は軍事上の理由などで架橋されていなかったので、渡し舟で川を渡りました。それが広重の浮世絵にも描かれている馬入の渡しです。

定員20名ほどの小船、馬が荷物を積んだまま乗れた大型の馬船、そして平田船(吃水の浅い川舟)が、馬入の渡し舟として使われたそうです。いずれにしろ、雨で増水した時なんかは揺れたでしょうね。短い距離とはいえ、船酔い、大丈夫?(当時の旅人は、渡し舟で船酔いするほどヤワじゃないか…)
そうそう、川止めの基準も決められていて、
【1月~6月】
普段の水深(基準値)が2メートル、そこから90センチ増水で川止め。
【7月~12月】
普段の水深が1.5メートル、同じく90センチ増水でアウト。
だったそうです。
で、現在、馬入川を渡るのには立派な馬入橋がありますので渡し舟は不要。川止めもないし、渡し賃も不要。ちなみに渡し賃は、お一人様10文程度だったそうです。今のお金に換算すると200円~300円といったところでしょうか。
さあ、勇んで渡りましょう!

馬入の渡しは、現在の馬入橋とほぼ同じ場所に在ったそうです。馬入橋を渡って、平塚側の川沿いに「馬入の渡し碑」が建てられているようですが、時間がないのでカット。そのまま平塚宿を目指します。

馬入川を越えると、いよいよ平塚宿!と、気持ちも高まります。目指す
-H-
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