日月神示の研究と実践

日月神示を中心に、神道、密教などを研究、実践するブログです。農薬不使用栽培などについても述べたいと思います。

言葉を慎むと運が開ける

2008-11-09 11:39:42 | 日月神示の実践
 中矢伸一氏はこのように言われています。

 『今の時代の日本人は、言葉の乱れもさることながら、使う言葉の量も多過ぎ、表現形態もあからさまに過ぎるように思われる。本来であれば、余計な言葉を要さずとも、お互いに十分に分かり合え、争いごとや訴訟騒ぎなども一切起こらないというのが神の臣民である。
 戦後からこれまでは、誠の心がなくとも口八丁、手八丁の者が世にのしあがり、良い目見ていた時代であったかも知れない。ビジネスの世界でも、交渉上手の者、タフ・ネゴシエーターが尊重されたし、今後もそういう人が成功すると思われている。
 だがこれからは、単に言葉だけ巧みであっても、いかに交渉上手であっても、けっして道は開けない時代に入っていくことだろう。肝要なのはただ「至誠の心」一つである。
 われわれは、もっともっと言葉を慎まねばならない。「食」を慎むことと「言」を慎むことで、運は開けると神示にはある。

 「運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい」(『冬の巻』補帖一帖)

 「口上手 身振り上手で誠ないもの、この方嫌いぢゃぞ」(『梅の巻』第二十四帖)

 拙著『日月神示・死者の書』(徳間書店)でも述べたように、高級な霊界に行くほど、言葉は少なくなっていくことが知られている。そのことは、日月神示のみならず、スエーデンボルグの霊界論や、大谷司完の霊界探訪録(『天使の声』)にも共通して示されている真理である。
 人間においても、霊格が高くなると、もの静かになり、あまり言葉を多く用いなくなるもののようである。霊性が高まるごとに、一つひとつの言葉が清らかで美しく、丁寧で、重要な意味を持っているという姿に、段々と近づいていくのだ。
 ゆえに「おしゃべり」には霊格の高い人はいない。交渉に長けていることは、外国では都合がいいかも知れないが、真正なる日本では通用しないのである。
 今の日本は外国並みになってきているが、これからは言葉が”宝”として慎まれ、尊ばれる時代になっていき、やがては再び「言霊の幸わう国」と呼ばれるようになるであろう。』(中矢伸一氏著 「日月神示 弥栄への道標」より)

 日月神示によれば、食を慎んで、言葉も慎めば、自ずと運が開かれて行くとのことです。腹八分にして、しゃべり過ぎないようにすれば、運が上がって行くなどどいうことは、どの本にも書いてないので、当然知ることもできませんでした。今後は、腹八分にして、おしゃべりを封印することによって、どれだけ運が上がっていくかを実践して行きたいと思います。変化が現れて来たら、また報告したいと思います。

 「だがこれからは、単に言葉だけ巧みであっても、いかに交渉上手であっても、けっして道は開けない時代に入っていくことだろう。肝要なのはただ「至誠の心」一つである。」
 今の世の中は、口が上手くて押しの強い人が会社でも社会でも何かと得をしていますが、これからはそんな姑息な手段は通用しなくなるということが、嬉しく思います。よく言われるように、真面目で正直者が馬鹿を見る世の中というのが、おかしいとは誰しも思っていますが、実際は真面目な人が割を食っています。これからは、ようやくまともな世の中になって行くのだと思うと、大変嬉しく思います。

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合気道と宗教  

2008-11-09 11:18:56 | 日月神示の研究
 白光真宏会のAKIKOさんから合気道開祖 植芝盛平翁先生と白光真宏会創立者の五井 昌久氏との親交をご紹介いただきましたので、こちらでもご紹介したいと思います。大変興味深い内容です。



 『合気道と宗教』


    五井 昌久



 「神はからいによる植芝翁との対面」


先日合気道の創始者、植芝盛平翁が、東京神田の講演会場に、私を尋ねておいでになった。植芝先生には、私も以前から一度お目に掛りたいと思っていたのですが、先日光和堂から出ている合気道という本を見て、この方には是非お会いしたいと、改めて思ったのです。
ところがこの想いが、数日をいでずして直ちに実現して、神田での対談になったのであります。この対談までの経過は偶然のようでいて、実に微妙なる神はからいによって進められていったのです。
それは、私が合気道の本を読んだ明くる日、出版の方の人に、私の著書を植芝盛平先生に御送りしておいて下さい、植芝先生は神の化身のような立派な人だから、と申しておいたのです。そうしますと、出版の方で早速送本するつもりで宛名を書いているところへ、林さんという婦人が見えられて、ふとその宛名を見て、"あら植芝先生なら、私の主人が大変ご懇意にしております"といわれたので、そこにいた会の理事の人が、"うちの先生は植芝先生に一度お目にかかりたい、と申されているのですよ"と軽い気持でいったのだそうです。
すると林夫人は、 "そうですか、五井先生と植芝先生がお会い出来たら、私共も大変嬉しいし、きっと双方に善い事になります。私帰って主人から植芝先生にそう申し伝えましょう" と勇んで帰ってゆかれたのですが、その翌日道場に電話を掛けてよこされ、 "主人が早速植芝先生に五井先生の御心をお伝え致したところ、一ケ月も前から、自分の会いたい人から迎えがくる筈だが、いったい誰れが使いしてくるのか、と思っていたところだったが、その使いはあなたでしたか、すぐにでも市川へ伺いましょう、と申されている" という事でした。そこで私は、わざわざ市川へお出向き下さるのも大変だから、神田の会の日にお出掛け下さるように、とお答えしておいたのであります。そして対談という事になったのです。
この経過は偶然にしては、あまりにも、すべて調子がよくゆきすぎております。たまたま見える人が、その封筒の宛名を書いているときに行き合わせる等というのは、偶然としてはあまりにも偶然過ぎますし、私の存在を知らされた植芝先生が、一ケ月も前から私との対面が判っていた、というのも、偶然とはいいがたい事であります。
こうした神はかりによって、植芝先生と私が対面したのでありますが、 "やあ、いらっしゃいませ" "やあ、今日は" といわぬ先きから、二つの心は一つに結ばれて、私は植芝先生という人格、否、神格がすっかり判ってしまったし、植芝先生も、私のすべてがお判りになったようでありました。
あまりお話はなさらないという先生が、心から嬉しそうに打ちとけて、私の講演が始まる六時までの二時間を、その時間を超えてもまだお帰りになる気持にはなられなかったろうと思われる程に親しまれて、"またちょいちょい伺います"といわれて帰ってゆかれたのであります。



 「合気とは我即宇宙たらしめる道である」


この日の植芝先生のお話や、合気道についての本から得た私の感じでは、合気道という武道の一種と見られる道は、空を行ずる事が根幹であり、そこから生まれる自由無礙(むげ)の動きであり、大調和、愛気の動きである、と思ったのです。空を行ずるという言葉をいいかえれば、自我の想念を無くするということであります。
植芝盛平翁は、この真理を、身をもって悟り、身をもって実際に行じておられるのですから、私が偉大な人と思い、お会いしたい、という気になったのです。
植芝翁の言葉をそのままお伝えすると、
…… 合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持をおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(註: 神道の真理の言葉)ではない。
だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。 ……
といわれるのであります。これが神の言葉でなくて何んでありましょう。この言葉は全く、宗教の道そのものの言葉であります。こうした言葉が理論的な頭や、言葉だけの言葉になって説教されたら、その言葉に生命がないのでありますし、折角の真理の言葉も、人の心を打たずに済んでしまうのですが、植芝翁の場合は、この言葉の通りに実行されているのであり、何者にも敗れたことの無い実績を残しておられるのですから、感動させられるのです。
私はこの言葉を書きながらも、非常な感動で胸が熱くなってくるのです。



 『神の化身 ~ 植芝翁』


植芝翁は確に神の化身であります。その神の化身は非常に謙遜であって、肉体身としては、自分の子供に等しい(翁は明治十六年十一生、私は大正五年十一月生)無名の宗教者のところへ、ご自分の方からお出掛け下さって、"これからは先生の働き時、私はお手伝いになりましょう。"
といわれるのですから、益々そのお心が輝やくのです。
こうした心はなかなか得難いものであります。いたずらに尊大ぶり、唯我独尊を誤り思って他を弱小視したり、常に他教団との勢力争いをしたりしている宗教者は、慚愧(ざんき)すべきでありましょう。
宗教者は、まず愛の心が深くなければなりません。調和精神が深くなければなりません。勢力を争う想いや、建物の立派さ、信徒数の強大さを誇る想いが、少しでもあるようならばその宗教主管者は、本物ではありません。
この世は神の世界であって、業想念の世界でも、自我欲望の世界でもありません。すべて神のみ心の如く成っている世界なのであります。神の大経綸は、着々として行われているのであります。
自己が自我欲望の中に住みながら、神の使徒である、と思おうとするのは、泥田の中にいて体を洗っているのと等しいのです。自我欲望とは、愛の心を乱し、大調和の心を乱す一切の想念行為であります。これはいくら声に出ずる言葉でいっても駄目なのです。実際に心に想い、行為を行じなければ駄目なのであります。
植芝翁と私の対談中、ある霊能の開けた人が、傍にいたのですが、その人の心には、二人の姿が、すっかり透明に見えたそうですが、それは、翁にも私にも自己の我というものが全くないから、想念の波をその霊能者に感じさせずに透明に見えるのです。
翁の姿を私が観ていますと、植芝翁という肉体人間の姿はなく、神道に記されてある、ある有名な神の姿がそのまま口をきいておられるのです。これは翁に自己の我の想念が全くないという事で、神の化身として働いておられる証拠であります。
翁の合気は、一度に何人の相手でも投げ飛ばす事も出来るし、何百貫の重量の物でも、平気で持ち上げる事が出来るという事であります。
こうした時には、翁の空(くう)になった肉体身をこれも神道に記されているある武の神が働かせて為させるのであります。
お目に掛からぬ前から私はそれを知っていましたが、お会いしてみて、その原理を改めてはっきり知ったのです。(後略)



高橋英雄 編著『武産合気』より



本会と(財)合気会の関係


参考文献
合気道と宗教
神の化身
~植芝盛平翁を称う~
植芝盛平翁の昇天


参考図書
『武産合気』
(高橋英雄 編著)
白光出版ホームへ


●合気道と宗教 五井昌久氏
  http://www.byakko.or.jp/2_goi/goiphoto/goi_ueshiba_aiki.html

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