ひつじ草の挑戦状

色んな思いを綴ってます。

いろは歌

2010-06-12 | 義経絵巻-芭蕉夢の跡-
大姫は、義高の一件から、笑うこともなくなってしまった。また、もう一つ気掛かりな事に、彼女は病に伏せるようになってしまった。義高のことで気に病んでいるだけだという者もいたが、実は彼女の体は病に蝕まれていたのだ。
大人たちは大姫の気が紛れるように?様々な祈祷を施し、彼女の回復を願った。しかし、願って回復するような不治の病なら、とっくの昔に不治の名前を返上し完治している大姫の体であり、それを知りつつ悶々としていた郷であったが、そんなある日、急に持ち上がった義経との結婚である。これを助言したのは母 比企尼だった。比企尼の“先見の明”である「トトロの術」が、いかんなく発揮される所である。伊豆へ流罪となった頼朝に目をつけ、逸早く近づき乳母となり、さらに、義経の手腕を買い、頼朝に娘の郷を嫁がせるよう助言したのも“大姫を天皇の后にする”ように進言したのも郷の母 比企尼と考えられている。そんな母の目論見を知りつつも、さらに、頼朝の命は絶対であり、巷で広がる浮気癖 義経がイヤと言えば、頼朝だって浮気症で、それが理由なら気分を害し「打ち首!」になるのが目に見えているから、特に強く反対することが出来ず、義経の許へ嫁ぐことになってしまった。
当時、女子たちの結婚で「浮気症と浮気癖だけはイヤ!」という、それだけの理由では意義申し立てなど出来ない時代だったのだ。
そこで、お互い苦労するよね…と、思い付いたのが「文通」だったのだ?
大姫は郷の文を楽しみに待つようになり、次第に気持ちが晴れて体も快方に向った。しかし、その回復も大姫にとっては不運を招くだけとなってしまった。頼朝は次の婚儀に向けての着々と準備を進めたのだ。娘の体よりも朝廷と外戚になり源氏を安泰に計ることの方が先決だったのだ。それだけ地盤が揺らぐ頼朝政権で、地盤固めに奮闘していた小心 頼朝だった。
大姫の思いやそれを危惧する郷の心、二人の間を行き来する鳩の事など知る良しもない。
大姫は幼少から体が丈夫ではなく、部屋に篭もり書を読み書きすることが多かった。
それ故に7歳にしては美しく整った文字を書く。その繊細さを物語る彼女の文で一番印象的だったのは、平安末期に流行した平仮名覚え歌「いろは歌」を認めた文だった。
大姫の文より---
いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねな
らむうゐのおく やまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせすん
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけん---


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。