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安彦良和先生の自分史(中編)

ドーシンこと北海道新聞夕刊のコラム「私のなかの歴史~オホーツクから『ガンダム』へ」から、ひき続き興味深い部分を中心にお送りします。

さて、安彦先生ですが、ガンダムの劇場版を終えてからがいろいろとアレでした
ここんとこ、あまりにも面白いんで、前半部分を書き出します。いやほんとに面白いんで。

劇場版ガンダムを終えて1年後の1983年、初めて監督した劇場用アニメ「クラッシャージョウ」が世に出ます。時効だから言っていいかなと思うんだけど、必ずしもやりたくなかったんですよ。スペースオペラ(宇宙活劇)って、面白さがいまいち分からなかった。
サンライズの社長が映画化の話をとんとんとまとめて持ってきて、もう断る雰囲気ではないわけ。原作の高千穂遥さんは小説の表紙や挿絵を描かせてもらった友人で、その気になってる。周りは「安彦がやるしかないだろう」という目で見るし、苦しかった。いろんな漫画家にデザインしてもらったゲストキャラを出して遊んだりしました。せめて楽しげに作らないと持たなかった。自分のモチベーションも、映像も。
考えてみたら、自分が主導権を握って「こんなのが面白いんじゃないか」と世に問うてこなかった。原案があるヤマトやガンダムで「こうすると面白い」とアイデアを出したことはあってもね。
「巨神(ジャイアント)ゴーグ」(84年)は、できてから放送まで半年待たされたロボットものです。おもちゃ会社に「売れるコンセプトが見つからないから時間が欲しい」と言われた。スポンサーが待ったをかけたら当然、放送枠は取れない。「売れなくてもいい、好きにやりなさい」って言われて好きにやったら、あまりにも魅力がなかった。
「ビームが出たり変型したりはしません」「じゃ、何するんだ」「石を投げます」「それだけか!」と(苦笑)。
確か、石を投げるおもちゃは出たんだよ。売れやしない、そんなの。
クラッシャージョウはガンダムの余韻があったから、そこそこ受けるとは思った。その次で一勝負かな、と考えていたらゴーグが空振りで、アニメ屋としての気持ちが切れた。


安彦先生がゴーグでコケちゃった84年には、かの「超時空要塞マクロス」と「風の谷のナウシカ」が世に出ます。それぞれ作品としての方向性はまったく違うのに、ともに大ヒット。先生は40歳前だったのに、「主役交代」てな気分に。
かといって、宮崎駿氏に対抗心が起きるわけでもない。マクロスに象徴される、オタク的な方向に行くつもりも全くない。
そこで、「アリオン」(86年)の頃には、自分の原作であるにも関わらず、ヤル気なっしんぐ状態。どういう風に辞めようかと、そればかり考えるように。
では後半部分をどうぞ↓

いちアニメーターとして描き手に戻る道は考えなかった。一度作家になった以上「アニメーターでいい。僕の技術を使ってくれ」というのは惨め以外の何物でもない。
プロフィルとしては劇場用作品「ヴイナス戦記」(89年)でアニメから引退。アニメ向きの戦争物で、もしお客がそこそこ来たらもう1本作ろうと思ってた。そしたら案の定コケてしまってかっこがつかない。不本意だけど辞めるしかなかった。
非常に苦い作品なんで、DVDとか一切出てない。僕が「いやだ」って言うんで出てないんです。


う~ん。
クリエイターさんて、本当に大変なんだなあと・・・。

ということで、次回はいよいよ後編。
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