人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

九州電力前金曜行動に初参加 事故直後から続く福島の状況を訴える

2018-10-27 07:44:24 | 原発問題/一般
今日午後から所用があって九州・福岡に来ている。日曜日まで滞在予定だが、金曜反原発行動はここ福岡でも行われている。今日はいつもの北海道庁前行動に代わり、ここでアピールを行った。被災地から遠い九州では、なかなか福島の生の声を聞く機会は少ないと思い、福島での経験を話すことにした。

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 皆さん、初めまして。今日は北海道・札幌から参りましたが、日本と、そして原発の運命を大きく変えたあの3.11当時は福島県西郷村に住んでいて、原発事故をそこで経験しました。今日、10月26日は偶然にも「原子力の日」です。その日に合わせて、今日は私の経験をお話ししたいと思います。

 福島県西郷村は栃木県との県境で、新白河という東北新幹線の駅があります。3.11当日は震度6弱という大きな揺れで立っていられないほどでした。地震による被害はなく、内陸部なので津波も受けませんでしたが、原発事故の影響はこの村にも及びました。一時避難をしていて、4月下旬に村に戻りましたが、「今まで見たことのない量の鼻血が出て止まらない。子どもだけではなく自分も鼻血が出るんです」と言いながら、若いお母さんたちが目を血走らせながら自主的な避難先を探していました。一方、県や市町村などの行政は、異常時であればあるほど平静を装おうとし、放射能の影響を不安に思う保護者がいるのに通常通り学校が再開されていきました。県庁所在地の福島市などは、チェルノブイリ原発事故では強制避難区域に該当する放射線量だったのに行政は避難指示をどこにも出しませんでした。私の住んでいた西郷村も、チェルノブイリ事故の際、移住を希望する人は国から移住支援を受けられる地域に該当するほどの放射線量になっていました。草刈りをした後に積まれたままになっていた雑草の山に線量計を当ててみると、振り切れたことがあります。

 健康不安を感じた福島県民が避難する流れは、その後2~3年くらいは続き、春の進学・就職シーズンになるとまとまった数の県民が避難して県の人口が減るということが続きました。県外に避難した人は4万人、県の人口が200万人でしたからその約2%が避難したことになります。

 1年を過ぎるころから、今度は住民の間で分断が深刻になってきました。避難指示が出た地域と出なかった地域、自主避難した人と県内に残った人とはもちろん、県に残った人同士でも賠償金をもらえた地域ともらえない地域の間に分断の線が引かれました。地域によっては道路1本を隔てて、東京電力からの賠償金をもらえる「特定避難勧奨地点」に指定されたところとそうでないところに分かれました。

 福島は自然が豊かで、広い家が多く、自宅の庭先で多くの野菜や農産物が採れます。原発事故が起きるまでは向こう三軒両隣、採れたものをお裾分けしたりして助け合っていた人たちの間で「お前のところは賠償をがっぽりもらえていいな」「賠償で毎日パチンコに行けていいな」という会話が飛び交うようになりました。助け合っていたはずの人々から会話も消え、ついには挨拶さえも交わさなくなり、地域コミュニティが壊れていくのを私は目の当たりにしました。

 やがて、避難区域が放射線量ごとに再編されると、激しい放射能汚染のため1年間の外部被曝が50ミリシーベルトを超えることが見込まれる地域は帰還困難区域とされました。これ以外の区域の人たちは、避難者であってもお盆やお彼岸、年末年始には自宅への一時帰宅が許されましたが、帰還困難区域の人たちは一時帰宅さえ許されないまま7年半が過ぎました。ほんの数十分の間、自宅の様子を見に行くこともかなわず、着の身着のまま住み慣れたふるさとと永遠の別れを強いられたのです。

 「原発事故とは何か」と聞かれたら皆さんは何と答えるでしょうか。私は「すべてを失うこと、奪われること」だと答えます。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という有名な詩があります。しかし人がそのように思えるのは、いつでも帰れる存在としてのふるさと、功成り名を遂げていつでも凱旋しようと思えばできる存在としてのふるさとが存在しているからです。しかし、福島で住み慣れた家を追われた人たちに、そのようなふるさとはありません。子どもの頃駆け回った野や山、思い出の詰まった学校や公園、先祖たちが眠る墓――それらのすべてに、帰還困難区域の人たちはもう二度と帰ることができないのです。事故から数年の間、避難指示区域の人たちは、集まるたびに「ふるさと」を合唱していました。しかし歌ったからといってふるさとに帰れる日が来るわけではありません。むしろこの歌が歌われれば歌われるほど、ふるさとに帰りたいとの目標が遠ざかっていくのが見ていてはっきりわかりました。長年、自分を生み育ててくれたふるさとに帰りたいのに帰れない。その一方で、健康不安のため避難した人たちは、住宅支援が打ち切られたため生活が困窮して家賃が払えず、帰りたくない福島に帰らなければならない。ふるさとに帰りたいと思う人、新天地で新たな生活を始めたいと願う人、原発事故とその後の安倍政権による冷酷な政治は、その両方の人たちの願いを打ち砕いたのです。

 私は、こんな残酷な目に遭う人たちを二度と生んでもらいたくありません。こんな思いをするのは福島が最後であるべきです。そのために、いま原発が再稼働している地域の人たちには、何よりもまず原発を止めてほしい。再稼働に反対してほしいと思います。

 玄海原発と福岡市は、直線距離で50km程度と聞いています。福島第1原発と福島県最大の都市である郡山市、高い放射能汚染の中にある郡山市がちょうど50kmくらいです。玄海で事故が起きれば福岡市も同じようになるでしょう。福岡市の人口は福島県とほぼ同じくらいです。同じ比率で2%が避難すれば、3~4万人近い人がふるさとを奪われることになるのです。原発に反対しましょう。皆さんと一緒に頑張りたいと思います。

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