daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

原発は是か非か(1)

2011年08月16日 | 社会問題を考える

私たち市民は「原発に依存しない社会」を目指さなければならない。
なにせ福島原発の事故で分るように、原発は放射能を撒き散らす。
放射能汚染区域内の人々は逃げ場もなく、オロオロするしかない。
その放射能の脅威ときたら、広島原爆の比ではないと言われます。
300㎞も離れた地の空気・野菜・家畜・畑・河川・海を汚染している。
いったん汚染された地が復旧する目途さえ定かでない有り様です。
自民党政府はこの危険な原発を安全と偽るレベルの低さでした。

エネルギー政策の転換は国家の根幹に関わるという考え方がある。
すなわち、日本経済界にトンデモナイ痛手を与えるというのである。
日本経済界に痛手を与えては大変だろうと、市民も察する所である。
ゆえに、エネルギーの原発化を唱える原発推進派の言い分も判る。
原発稼働で化石燃料の輸入量・使用量は確かに確実に減るだろう。
原発の運転コストは化石燃料より安くて済むとも、喧伝されている。
つまり、低コストの原発は化石燃料より安い電気代で済むという…。

さて、原発の危険度を言うなら、命に換えられないと答えたい。
それで経済面では原発推進派の言うのは本当だろうか? 否いな。
いったん原発事故が起ったときの被害は膨大なものになるのです。
福島原発の事故で少なくとも数十兆円の被害が見積もられている。
さらに、市民の機会損失については、どう補てんするのでしょうか。
そもそも原発推進派は原発の危険を引受ける覚悟はないだろう。
東電の経営陣も政治家も、原発から離れた安全な地に住んでいる。

しかももっと重要な視点に、私たち市民は気づかなければならない。
推進派は、国民的論議を経て原発の最終的な姿を決めたいという。
原発推進派の傲慢な体質、詭弁がチラついているのを、御存じか?
現・原発の建設にあたって、国民的議論なんて聞いた試しはない。
政治家が「国民的議論」というとき、国民は常に排除されてきた。
国民の知らない料亭か銀座のバーか、どこかで決めてきた筈です。
そこは国民は無縁の、政治家か官僚か、そういった類が集まる所。

それより今、原発廃止の国民的な機運が高まっている事実がある。
国民が原発に「ノー」を突きつけている事実を見なければならない。
国民の意志を無視するか受けとめるか、それは政治家の自由だ。
政治家・政党に国民が黙って従うと考えるのは政治家の勝手だよ。
推進派の政治家・政党の言い分が正しいことの証明をしたら好い。
もしか「反対派の国民はおどしてやれ」って考えてるか知らないが、
それこそ、国民無視の推進派であると世界中に知れ渡るであろう。

さて、この問題、もう少し続けさせていただこうと思う。





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