うべプラネタリアン

プラネタリウム解説の活動を通じ、いろいろ感じたことをさまざまに語りたく....

原城趾 2 ....(B101-2)

2010年02月16日 17時31分10秒 | 史跡散歩
原城は島原半島の南端にある。
もともとこの地を治めていた有馬氏の城だったが、有馬氏は小西行長につながるもので
関ヶ原後宮崎に転封され、あとにきた松倉氏が島原に城を建てた。
その時彼の地の6万人の農民は、6年間で延べ100万人が動員され、過酷な労働と租税が掛けられた。
島原城が完成すると一藩一城の定めで原城は取り壊された。
過酷な年貢取り立てと労役と無体なキリシタン弾圧に抵抗して立ち上がった農民達の一揆は
あっという間にふくれあがり、ある場所は全村挙げてはせ参じ、総勢3万7千人が
16歳の益田(天草)四郎時貞をいだいて、廃城の原城に立てこもった。
時は、三代将軍家光。
鎮圧に乗り出した九州各藩は、難攻の名城だった原城の地形や、攻め手側の足並みの乱れもあって、
多大な犠牲を強いられたが、事態を重く見た幕府は老中松平信綱ひきいる12万の軍勢で取り囲んだ。
兵糧責めや、オランダ軍の艦砲射撃、はたまた内通者の潜入など手を尽くして大がかりな攻城戦を展開し、
女子供までことごとく斬り死にするなど惨殺の果てに3ヶ月に及ぶ一揆は鎮圧された。
今でも埋められた城の石垣の間からは白骨が出るという。
原城本丸跡に小さな一尺五寸程度の石塔が建ち、摩耗したかすかな字は天草四郎時貞之墓と読める。
有明海の寒風の中で、そこはひときわ風が重い。

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