皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

引け!引け!引け!

2017-06-24 16:50:50 | 日記
市内小学生綱引き大会に参加しました。市のスポーツ連盟主宰ですので、自主参加ですが、子供たちの学校は普段から練習し、優勝目指して参加しています。高学年、中学年、低学年と分かれますので、姉の六年生は組み合わせ有利、弟の三年生はやや不利になります。保護者が一名なかで監督として入る条件です。最後尾は安全の為ヘルメット着用するのが決まりのようです。始めは二階の観覧席でのんびりみていましたが、やはり自分の子供の対戦になれば、アリーナに降りてすぐそばで応援していました。三年生は予選敗退でしたが、六年生のチームは予選から全てストレート勝ちで決勝まで進みました。チーム名はイレブンドラゴンズ。一クラス11人でこの5年半、共に歩いてきた仲間です。決勝前の円陣です。他者との比較ではなく、純粋に一番まとまりを感じました。
綱引きは体重もさることながら、低い姿勢、スタートのタイミング、力の合わせかたといったまさしくチーム競技の象徴のような競技です。チーム9人で引きますので、むしろ応援している方が力が入ります。大声で声援を送る姿に思わず感動してしまいました。決勝の相手も強敵で結果はストレート負け。上には上がいると、実感しました。人目もはばからず泣き出す子もいて、真剣に取り組んだことの証のようでした。
解散後は反省会を兼ねて、皿尾の自治会館でみんなで遊んでいます(子供いわく、皿セン集合)女の子も加わり、神社境内で鬼ごっこをしています。
皿尾城の子供たちに輝く未来あれ!
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第5回講座は歴史ロマンツアー

2017-06-22 21:00:05 | 生涯学習
今日は行田市民大学第五回講座として、『のぼうの城』関係史跡見学ツアーが開催されました。仕事の都合で、過去二回休んだためしばらくぶりの参加となりました。講師は行田市文化財保護課中島洋一先生です。参加者は生徒41名、運営部の方5名です。市内の大堰観光の大型バスで移動します。せっかくの地元散策のツアーですので、自宅から市役所前の集合場所まで、歩いて行きましたが時間ギリギリになってしまいました。熊谷にある成田氏の菩提寺、龍淵寺です。1411年成田家時が建立しました。開祖は和庵清順和尚とされ、和尚は皿尾村から呼ばれたと伝えられています。和尚は「関東の高野」と呼ばれた武蔵の人の心を大いに救ったといわれます。成田家の墓石の前でてをあわせました。
上之村雷電神社です。こちらも12代家時が社殿を再建しています。もとは久伊豆神社であり、成田家が久伊豆神社を厚く信仰した記録があります。成田家は上之、皿尾、持田(大宮口)、長野(長久寺)と四社久伊豆神社を祭っています。行田に戻り、長野口と忍馬車鉄道記念石碑です。長野口は船着き場として栄え、また明治維新後、忍城が解体され急激に人口が減り鉄道が引けない代わりに今津家が中心となり、馬車鉄道に乗り出したそうです。また今津健之助氏は昭和15年『成田記』の復刻版の発行にも尽力された、忍の渋沢栄一と呼ばれる人物です。現在の今津印刷所さんは今回の行田の足袋文化、日本遺産登録の構成遺産の一つです。
埼玉古墳群、丸墓山です。忍城水攻めの指揮を取った石田三成が、この山頂で陣を張りました。どうしてこの古墳が円噴なのかは分かっていないそうです。また石室の発掘は国の管理の為、文化庁が許可しないそうです。歴史を明らかにする事と、保全することを両立出来なければ、歴史の破壊になるようです。
皆さんだいぶ疲れてらっしゃいましたので、山頂へは私が一人で上りました。最後は石田堤です。
秀吉は忍城を落とす事より、部下に巨大な堤を築かせ、その力を諸国の大名に誇示することを目的としました。その意思を汲み、石田三成は僅か7日で堤を完成させたと言われますが、実際には1ヶ月以上かけて、また自然堤防や高台を利用してなんとか水を引こうとしましたが、ほとんど効果はなかったそうです。堤が決壊したといわれる堀切橋と、鴻巣市の石田堤公園です。のぼうの城のなかで、村人が堤を決壊させるシーンはこの絵がもとになりましたが、史実とは異なるようです。城西交差点にあるからくり時計は精密機械メーカージェコーによる寄贈品で、市街地のシンボルとして親しまれてきましたが、壊れたままです。市にお金がないから直せないとクレームが良く入るそうですが、実際にはジェコーさんに部品がなく、対応出来ないなどといったこぼれ話も随所にちりばめられました。
一日を通して中島洋一先生の豊富な知識と話術に驚嘆していました。
地元の人にこそ地元の歴史を知って欲しい。そうした事が良く伝わりました。来週より半年かけて、グループ研究が始まります。今日の会合で私のグループは行田市内の神社の系譜といったテーマで取り組むことになりました。
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皿尾城の歴史③

2017-06-21 21:47:59 | 皿尾城の空の下

『成田記』によれば皿尾城は上杉謙信が築いた砦とされます。しかしこの地の久伊豆大雷神社が成田氏により鎌倉初期に勧請されたことを踏まえれば、成田氏による小規模の軍事的拠点が存在したと推測されます。郷土史家の富田勝治先生が作成した「皿尾城址図」によれば堀跡と思しきものが残っています。私が小学校低学年(昭和56年頃)まで神社西側には自然の水路がありました。また神社前後には自然要塞として水田が広がっています。


また神社裏手は明らかに土塁と呼ぶような土の盛り方です。現在社殿を囲むように土塁が残り、杉の木が茂っています。

皿尾城における忍城成田氏と上杉家方の武将が戦った記録が『上杉家文書』に残されています。河田谷忠朝という武将が上杉家の家臣に宛てた書状です。
 
  於当口両度得勝利候之上、弥以成田押詰可申候、此等之旨、可預御披露候


 六月二日付の書状で年号は永禄五年(1562年)と考えられています。
 河田谷忠朝とは羽生城主広田直繁の弟に当たり、後に木戸姓を名乗り兄の後を受けて羽生城主になる人物です。
当時皿尾城にいた河田谷忠朝はこの書状書状の中で、当口(=皿尾城)において二度の合戦に勝利し、いよいよ成田を追い詰めていくのでこの旨を謙信公に伝えてほしいとつづっています。
実はこうした皿尾城における攻防戦を記した資料は多いそうで、『成田記』、『鎌倉九代後記』『北越太平記』などにも記述があるそうです。それぞれが情報が錯綜し、内容が異なっているといいます。

『成田記』巻三『謙信騎西城攻併皿尾砦築事』の項の中でその戦いぶりを読むことができます。
上杉謙信は騎西城を攻めたたあと忍城に軍勢を差し向け、木戸伊豆入道らを守として置いた。謙信が武蔵国から一旦引き上げた後、忍城成田長泰は反撃します。(成田目の前に砦を築かれ安からず思ければ、速やかに踏み潰せと人数押し出し)成田側の兵力の違いからくる、勝って当然の思惑が読み取れます。
 「木戸父子精根限り死力を奮い防ぎと言え共、忍の大軍無二無三攻め近づき堀も柵も引き倒さんとするところ

助けに現れた武将がいました。岩槻城主、太田資正です。
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皿尾城の歴史②

2017-06-20 21:56:51 | 皿尾城の空の下
戦国時代の北武蔵の覇権争いのなかで、忍の成田氏の動向に大きな影響を与えた戦国大名といえば、小田原の北条氏と越後の上杉謙信です。北条氏康と成田長泰は血判の証文を何度もかわしています。しかし永禄三年(1560)上杉謙信が関東に侵攻すると、長泰は北条から離れ、謙信に味方して相模国まで兵を進めています。当時上杉は関東攻めと共に、宿敵武田軍との川中島の戦を始めたころのことです。
成田長泰にしても藤原の流れを汲む北武蔵の国衆として生き残りをかけて悩み抜いていた時代です。北条と上杉の狭間で揺れ動き、従属と離反を繰り返すことで北条上杉両家から信用されていなかった様子が北条氏政の手紙の中に記されています。(上杉家文書)そんな中、成田と上杉の関係を決定的に引き離す事件が小田原にて起きています。永禄4年(1561)上杉謙信が関東管領就任の際、馬上から降りなかった成田長泰を馬から引きずり下ろしたことです。この件で、他国の国衆も上杉に対する心証を悪くしたと伝えられています。そうした成田、上杉との関係のなかで浮かびあがるのが上杉が忍城攻めの起点とした皿尾城です。
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皿尾城の歴史①

2017-06-19 21:42:00 | 皿尾城の空の下
私の住む皿尾村に、その昔上杉謙信にまつわる城があったことを村の人達はあまり知らないようです。かくいふ私こそが、聞いたことはあっても、それほど興味も持たず今日まで生きてきたことを、恥ずかしくまた意外な歴史はかくもまた、身近なところに眠っているものだと今更ながら感心したりもしております。ふとしたきっかけで、その歴史の息吹きに触れ、目から鱗が落ちるが如く身の回りの歴史や文化に興味をひかれながら、ここ一年ばかりをすごしてきたなかで、改めて皿尾城について私自身が感じていることを少しずつまとめてみたいとおもいます。
写真にある皿尾城跡碑は昭和54年行田市教育委員会が、行田ライオンズクラブの後援で建ててくれた石碑です。私が小学校に入学した頃です。

永禄4年(1561年)3月上杉謙信輝虎は再三忍を攻め皿尾の地に築城し、木戸監物入道玄斉に守らせたが、成田氏と通じた為、謙信は怒って城を焼き払うと『北越軍記』当にあるが、今は外張という地名を残すのみである。

所在地 行田市大字皿尾字外張337
皿尾農民センター南側
外張という地名は字名として残るのみであり、登記簿の全部事項証明書には現在でも目にすることができます。読みは「とはり」と読みます。
皿尾農民センターは地区自治会館として1965年前後に建てられて、平成27年皿尾ふるさと館に建て替えられた歴史を持ちます。
また、『増補忍名所図会』によれば、上杉謙信は忍城を三度攻めたと伝えられています。
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