小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

小菅優&新日本フィルハーモニー交響楽団(1/6)

2021-01-08 13:18:09 | クラシック音楽
ピアニスト小菅優さんと新日本フィルハーモニー交響楽団によるオール・ベートーヴェン・プロ。指揮は角田鋼亮さん。この日都内の感染者は過去最多の1591人となり(翌日2000人を超えた)、その影響か、単に年明けのせいなのか、会場のすみだトリフォニーホールは約5割ほどの入り。ぎりぎりで到着したため前半は3階席センターで、後半はオケに近い3階RB席で聴く。

ベートーヴェンイヤーは2021年も続く…という言葉をどこかで聴いたが、そうあってほしい。この混沌とした世界にあってベートーヴェンの音楽は人類の精神的な支えになると思う。ハ長調の1番のピアノ・コンチェルトは、世界に対する「初心を忘れるな」という天空的なものからの警句にも聴こえた。小菅さんのソロは輝かしく、すみだの3階席で聴くピアノの音響の鮮やかさを有難く思いながら、雄弁なソロと柔軟性に富んだオーケストラの掛け合いを楽しんだ。ベートーヴェンのピアノコンチェルトを聴くと、無限に増殖していく植物や魚をイメージしてしまう。ピアノ協奏曲第1番は春を連想させ、雪解けを終えた地面から命が噴き出し、豊かな緑色に覆われていく様子が見えるようだった。

小菅さんの登場前と登場後では、日本のピアニストも変わったのだと思う。優等生的であることを軽く超えている。深遠でシリアスなだけではなく、火花散るヴィルトゥオジティの爆発があり、作曲家への主体的で確信的な解釈がある。以前取材で「ベートーヴェンやリストが好きなのはドイツ語でアジテーションする感覚があるから」と語ってくださった。10歳で単身ドイツへ渡られ、ピアニストの道を歩んだ。思えば、私がお会いしたときはお母様を亡くされたばかりだったのだ。陽気に振る舞っていらしたが、後から自伝を読んで知った。
 ベートーヴェンは「真理」をつかんでいる。あまりに圧倒的で核心をついているため、逆に沈黙を強いてしまうほどに、ひとつの世界認識として完璧だ。そこには自然があり宇宙があって、その中に人間が完璧な形で屹立している。ピアニストの「言語」を翻訳する技術が自分にあるとは言わないが、作曲家がどのような方法でそこに到達したのか小菅さんは理解していると思った。優美なラルゴ楽章は、人類がかつていた楽園、失われた神々の時間を想起させた。

指揮者の角田鋼亮さんと小菅さんの相性も良かった。角田さんは指揮棒なしでオーケストラから平和で自然な響きを引き出していた。指先の動きがバレエダンサーのように美しい。マエストロがプレイヤーに心から感謝してると、プレイヤーもそのように返すものなのではないか。ベートーヴェンの急激に激昂する性格は、ある一音から世界が全く変わってしまうような楽想の書き方に現れているが、すべての演奏がそのように再現されるわけではなく、角田さんの指揮で改めて気づく曲の醍醐味と作曲家の個性というものがあった。音楽の均整の美、楽器の機能を知り尽くした上で、それが単なる客観の美に帰結することなく「個」の強烈さが揺さぶりをかける。
3楽章は第九のフィナーレを彷彿させるハイテンションな音楽。モダンなオーケストラがこれを演奏すると、どこからか電子的な響きが湧き起こるような錯覚を起こす。非常に「ロックな」感触がした。

後半のピアノ協奏曲第5番「皇帝」は、オケの真横で聴いたため、新日本フィルが如何に献身的に音楽に取り組んでいるかが手に取るように分かり、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。管楽器の緊張が少しも緩まない。フィナーレ楽章のホルンのロングトーンなどは、素潜りの肺活量を要するのではないかと思った。ぎりぎりまで堪えて長く吹くのは凄い。オーケストラが指揮者に対して冷めていたり、演奏を消化試合のように捉えていたらあんな音は鳴らない。オーボエ、フルートの集中力も素晴らしかった。弦楽器も打楽器もお互いのサウントを繊細な耳で聞いており、音楽が自然な流れを失うことは一瞬もなかった。ベートーヴェンの記譜法の本は積んでおいたままちゃんと読んでいないが、各パートにそうした密な「助け合い」を求める書き方をしているのだろう。そうしたコンビネーションの上で重なる小菅さんのソロは伸びやかで、素晴らしい安定感があった。

大編成のマーラーは不可能なので、ベートーヴェンが多く演奏される時代、というのも何かを思い出させられる心地がする。啓蒙主義時代の若々しいヨーロッパと、日没の老いたヨーロッパ。マーラーが亡くなった1911年、あらゆる象徴的な意味で…ヨーロッパ文化は一度命を終えたのだ。ベートーヴェンが生きた時代のイノセンスについて再び考えなければならないと感じた。帰り道に半蔵門の書店で購入した佐伯啓思氏の卓越した哲学書を読み、戦後の「生存第一主義」を警戒し、ギリシア時代の「よりよく生きる」美徳を取り戻し、誤謬を重ねてきた人間の文明に答えを出すのはオーケストラなのではないか…と考えた。







東京二期会『サムソンとデリラ』セミ・ステージ形式

2021-01-06 12:22:35 | オペラ
今年最初のオペラは二期会コンチェルタンテ・シリーズ『サムソンとデリラ』。渋谷駅からオーチャードホールまでの景色は、例年に比べて極端に人が少ない。13時からのゲネプロ(1/6キャスト)と、19時からの初日キャストの公演を聴いた。
指揮者はフランスの若手マキシム・パスカル。2020年12月4日に読響と共演して一か月以上経つが、年末年始も東京に滞在して二期会の『サムソン…』を振ることになった。「ヨーロッパでは劇場やコンサートホールは全て封鎖されているのに、日本で指揮できるのは素晴らしい。クレイジーでエキサイティング」と映像インタビューでも語っていたが、コロナの影響で急な代役に抜擢されるとは日本と不思議な絆があるのかも知れない。パスカルの音楽をひとつでも多く聴きたいと思う私のような者にとっては嬉しい事態だ。

『サムソンとデリラ』は実演で聴いた経験がほとんどない。歌手たちには高度な技術が求められる。ワンフレーズの中で転調が多く音程をとるのが難しいし、ヴェリズモ並みの声量と表現力が必要な上、デリラはロッシーニばりのアジリタも歌う。ゲネプロでは福井敬さんがサムソン、池田香織さんがデリラ、小森輝彦さんがダゴンの大司祭を演じた。サムソンが歌い出す前のオーケストラと合唱は長く、その間歌手は黙役のように舞台上を放浪するのだが、福井さんの演技は見事だった。「神よ!」の第一声もめざましい。ロシアの歌劇場などではゲネプロで「歌わない」歌手も多いが、日本の歌手は全力で歌う。ほとんど観客のいないゲネプロで、福井さんの本気の声を聴くのは大変な贅沢だった。

池田香織さんのデリラは高潔で、巫女のように感じられる演技だった。信じ難いほどの精緻さでサン=サーンスの奔放な旋律を歌い、音程が正確であればあるほど役に秘められたものの大きさが浮き彫りになる。ペリシテの神ダゴンを信仰するデリラは、ヘブライの神エホバから神の力を与えられ、ペリシテ人の圧政に反抗するサムソンを心から憎む。憎しみの根源にあるのが神であり、信仰なのであり、個人の情愛のスケールを超えているのだ。自分の神のために女の魅力を使ってサムソンの力を奪おうとする。

マキシム・パスカルと東フィルのサウンドは、合唱とソリストと一体化しつつ、もうひとつの声楽パートのように生き生きと、美しいモティーフを幾つも浮き彫りにした。フランス人だからフランス語の歌詞の一語一句を理解しているのだが、それに加えて全体から妖艶なフランスの「香り」を引き出していた。木管と絡む弦やハープが夢のような響き。指揮棒を使わず、全身で踊るようにオケを鼓舞するやり方は、2017年のパリ・オペラ座バレエ団の「ダフニスとクロエ」のときと同じだ(オケも東フィルだった)。あのときも、オケピで大活躍するパスカルに釘付けになった。
 東フィルのレスポンスは卓越していた。東フィルはオーチャードホールで定期を行っているから、ホールのアコースティックを味方につけていたと思う。コンマスは三浦彰宏さん。三浦さんはオケが「ラグジュアリーに鳴る」感覚を知り尽くしている方だが、その切り札をひとつだけでなく、いくつも持っていることに改めて驚愕した。イタリアオペラにはイタリアの、フランスオペラにはフランスの「グラマラス」があり、『サムソン』ではマキシム・パスカルが求めているオペラの神髄を現実化していた。軽やかさと透明感を保ちつつも、サウンドには宝石で出来た壁のような豪華な存在感がある。心臓が高鳴るほどハイセンスで洗練されていた。

デリラは相手をあざむくために変幻自在でカラフルな歌唱を披露するが、サムソンは一途で一直線で簡単に騙される歌を歌う。カルメンとドン・ホセであり、ジュリエッタとホフマンであり、ダゴンの大司祭はジュリエッタを操るダペルトゥットそのものだ。小森さんの大司教は確かにダペルトゥットを彷彿させた。この組は素晴らしい。オペラの陰と陽はふたつでひとつであり、サムソンとデリラは完璧なカップルだった。福井さんと池田さんは「トリスタンとイゾルデ」なのだ。二人の登場人物はどうしようもなく引き合う。憎しみと愛によって無限のドラマが生まれ、サムソンが目をつぶされてもまだ何かに飢えているようなデリラの演技が凄かった。デリラの憎しみは、何によっても癒えない。

闘っているのは神と神なのだ。紀元前から続いているこの執拗な争いが簡単に収まるはずはない。サン=サーンスは教会のオルガン奏者で宗教的な人物だったが、愛に関しては矛盾を抱えていた。愛が人生の苦しみであり、喜びであったと思う。マリア・カラスの名録音でも有名なデリラの二つのアリアが、この世のものならぬ陶酔だった。池田さんはどのような気持ちで歌われていたのだろうか。

終盤近く、目を潰されたサムソンをいたぶり、喜びの凱歌を歌うデリラとダゴンの大司祭の二重唱の旋律は奇妙だ。メロディは無味乾燥で何の魅力もなく、ただ空疎に「我々は復讐を果たした!」と歌っている。ロッシーニ風のアジリタが出てくるのはここだ。そのあとに、サムソンが自分の神に最後の問いかけをする。神は答える。見事なラストシーンだった。福井さんはオペラの中で役を完成させようとするより、オペラの終わりが新たなご自身の始まりとして捉えているのではないだろうか。歌手がすべての恐れを捨てて未知の可能性に飛び込もうとするラストに思えて仕方なかった。


同日の本公演では、板波利加さんのデリラ、樋口達也さんのサムソン、門間信樹さんのダゴンの大司祭で全く異なるオペラが展開された。オーケストラのサウンドも違っていた。樋口さんの声楽的なキャラクターが、初日組のオケのグラデーションを作っていたと思う。華やかでオペラティックで、「神に選ばれた」英雄の表現が鮮烈だった。デリラ板波利加さんは、これ以上のデリラがいるだろうかと思われる歌唱で、第一声から何か超自然的な力を感じた。板波さんは名歌手ジュリエッタ・シミオナートの愛弟子で、1幕ではシミオナートから譲り受けたドレスをお召しになっていたのだ。デリラの独唱は時空を超えた歌で、戦士サムソンを自分の家に招き入れようとする「癒し」の力も溢れ出ていた。2幕、3幕の見どころも素晴らしかったが、1幕ではほとんど…目を開けていられないほど涙が出た。感傷とは違う、何か深い感慨に貫かれた。この役は、魂から演じないと成立しない役なのだ。
勇敢でドラマティックな樋口さん、悪女の多面性を凄まじい香気で演じた板波さん、そしてこの公演ではダゴンの大司祭を歌われたバリトンの門間信樹さんが鮮烈だった。門間さんの歌を意識して聞くのは初めてかも知れない。長い歌が続く場面でも声が足りなくなるということがない。大司祭はこのオペラでは主役の一人であるということを教えていただいた。

マキシム・パスカルは、憎しみの表現によって自由を得ていくデリラを支え、矛盾こそが人間の本質であると音楽で伝えているようだった。どうしても指揮者のあの動きを見てしまう。東フィルの活躍が誇らしい。どんなオペラ指揮者の知性にも想像力にも応えていく力量に改めて胸を打たれた。
二回観ることで、映像演出に多くのメッセージが込められていることにも気づく。映像は栗山聡之さん、舞台構成は飯塚励生さん、舞台監督は幸泉浩司さん。セミ・ステージ形式とはいえ丁寧に作られている。
 
二期会合唱団の取り組みは果敢で、年末の第九を始め合唱は準備に困難を極めたこの時期だったと思う。そこで、思うように力を発揮できない団体も見てきた。二期会合唱団が歌う歌詞は、まるで2021年1月のこのときのために書かれたのではないかと思うほど黙示録的だ。すべては偶然のようで、偶然ではないのかも知れない。
2回休憩込み2時間55分。1/6午後7時からもオーチャードホールで公演が行われる。


タロットカードの「力」。サムソンの力を封じるデリラを彷彿させる。