伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

自衛隊のあり方をめぐって共同できると実感できた古賀講演会

2023年05月15日 | 平和・戦争
 講演会の案内は知人から頂いていた。以前、本ブログにも講演会で聞かれるかもしれない講演の内容に期待をする記事を掲載した。講演はその期待に応えてくれた、そんな思いを強くした。なお、会場での写真撮影、録音はだめと言われたため、写真はなくて文字ばかり、話した内容はメモに基づくため不確実なところもあるかもしれない。ご容赦を。

平和に関心

 古賀氏は自民党では宏池会に所属し、会長も務めた。
講演の冒頭では、自民党の公認がないままとなった初めて立候補した衆院選で次点(当時は中選挙区制)となった結果を受けて、「公認を出せば良かった」と同じく宏池会の福島3区(中選挙区制)選出の故斎藤邦吉代議士(当時の宏池会幹事長)と笑い合ったというエピソードを紹介し、「戦前の軍国主義の間違った政策で父を失い、母の苦労(たぶん)を身体中に染みこませて育ってきた」ことを政治家として役立たせてきたと、自らの政治の原点を語った。

 同氏は、平和に大きな関心を寄せる。
 その平和の「尊さ、大切さを身体中から発散させていた発進力のある政治家は(故)野中廣務しかいなかった」とし、彼との出会いは「政治家としての大切な体験だった」と遺族会会長に就任したときのエピソードを語った。

 遺族会会長に就任した古賀氏は、野中氏に「戦地に立った事があるか」と勧められたことをきっかけに、同氏を含む代表団で父が戦死したフィリピンのレイテ島を尋ね初めてその場所に立ったという。段ボールを使った簡易な祭壇を作り、飾り付けを終えた途端にスコールでザーと雨が降り出した。君が来て初めて父が成仏できたと語る野中氏の言葉を聞いてこらえきれずに泣いたと語る。

 たぶんそういう趣旨だったと思うが、レイテ島にある旧日本兵が逃げ込んだ洞窟に入った際に、どうして貧困があるのか誰も解けないまま多くの人が死んでいき、その繰り返しが戦争だと思ったという。赤紙1枚で命を落とさずにいられなかった家で育ち、言いようのない悲しみと遺族となったことが政治の原点であるならば平和を言い続けなければならない決意を語る。

合意形成のあり方に疑問

 今や安全保障などの問題はすべての面で変わったという古賀氏は、怖いのは入り口で議論が出来ているか、合意形成のあり方に疑問があると指摘した。

 岸田首相は宏池会出身だが、同会は憲法、言論の自由、歴史認識が理念の原則だという。 この宏池会はかつて「楕円の哲学」を作り上げてきた。平和憲法と日米安保は、決して同心円にはならず、両者はそれぞれ違う軸で円を描き、この2つの円が引っ張り合いバランスをとることで、初めて日本の平和を作り上げることが出来るという考え方のようだ。

 この哲学から見た時、岸田政権のもと書き換えられた安保3文書(「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」)の書き換えは、「日米安保に偏った専守防衛の大転換。気を付けていかなければならない」と指摘した。その上で「誤った国策を繰返すことのない歴史認識を持つことが大事」と語った。

くらしにも関心を寄せる

 もうひとつはくらしの問題にも関心を寄せているという。

 小泉流の劇場型の政治がもてはやされる中、中味や過程より結果だけを重視するやり方に政治手法が替わってきたと警鐘を鳴らした。昭和42(1967)年1兆円を初めて超えた国予算は、今や114兆円に達しているが、その中味は、福祉と借金の元利返済と地方交付税で7割を占め、残り3割であらゆる政策に当て込んでいかなければならなくなっており、ここに長年のわが国の政治のひずみが表れており、1つの大きな分水嶺を迎えている政治は、思い切った解決の時代を迎えていると強調した。

 また、父を亡くした頃の時代は貧困ではあっても今と違って「希望」があっという。今の時代は「間違った平等」がはびこり、閉塞感が漂っている。憲法に縛られる政治家が憲法改正を口にするのも「どこかおかしい」という。

 その上で、ものの豊かさの追求には限りがなく、心の中に豊かさを作り上げることが大切になっており、その実現を「政治家だけに求めず、国民一人ひとりが見つけ、積み上げていくことが大切」と持論を展開した。

 最後に古賀氏は、こう語った。
(故)野中氏が92歳の時「まだまだ生きる」と語った。83歳になり、権力闘争にあけくれるよりゆっくり過ごしたいとも考える。しかし、父がやりたいとことをやり残し亡くなったことを思うと、多くの人と手を取りあって少しでも良い日本の国作りを考える時間を作りたい。そのためにいっしょに立ち止まる時代にしたい。

政治的立場を超えて共感できた講演

 1時間30分程の講演をこう締めくくった古賀氏とは、政治的な立場では異なる部分もたくさんあると思う。しかし、共感できる部分もたくさんあったと思う。

 思い起こしてみると、私が政治的な問題に強い関心を抱いた直接のきっかけは「学習の友」(学習の友社発行)だった。この年、就職し着任した職場に届く労働組合宛の郵便物に同誌があり、斜め読みした記事の1つに、海上自衛隊が米国などが参加する訓練に参加するためにハワイ沖で実施される環太平洋合同演習・リムパック80に派遣されるとしたものがあった。これがきっかけだったと思う。奇しくも古賀氏が衆院選に初立候補した1979年のことだ。

 憲法上日本は軍隊を持たないにもかかわらず、自衛力と呼ばれる軍事力を持っている。発足当初から憲法論議があったが、政府・自民党は専守防衛(攻められたら反撃する)の組織として、自衛隊は合憲との主張を続けていた。

この専守防衛が自衛隊の行動を縛る。日米防衛協力の拡大が追求される中、海外への自衛隊派遣の障がいになっていたはず。リムパックの参加は、ここに風穴をあける役割を果たしたはずだ。

日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」し諸国民の「公正と信義に信頼」(日本国憲法前文)し、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」し、そのために「陸海空軍その他の戦力」を持たず、「国の交戦権」を認めない(日本国憲法第9条)とした。

 このため自衛隊が存続する限り憲法との矛盾は議論の的となり続ける。憲法上の制約で、日本では高度な武力や火器を装備する自衛隊を軍とは呼べなかった。このため、自衛隊と呼称し、その役割は専守防衛だとされてきた。しかし、自衛隊は英語でSelf-Defense Forcesと標記され、Forcesは力や強さなどとともに軍という意味を持つ。日本語でいかに読みかえたとしても、国際的には軍と認識をされている。

 この軍を、訓練とは言え軍を海外に派遣させるのは憲法に違反するのではないか。たぶん、この当時、大きな議論が交わされていて、その記事になったのだろう。

 戦後1960(昭和35)年生まれの私ではあるが、こんなこともあり平和というテーマに強い関心を抱くことになった。

 それから44年。その間自衛隊は存続し、その装備も近代的でかつ強力な物になった。またその任務も、国内限定から、国連PKOへの派遣や地域的限定なく米軍との共同作戦を取ることができるようにするまで国際的に拡大してきた。北朝鮮のミサイル発射やロシアのウクライナ侵攻などの事態を受けて、巡航ミサイルを装備するなど敵基地を叩く能力を備えようとしている。

 こうした事態を受けて、かつてのように憲法と自衛隊の存廃が最優先課題ではなく、憲法と自衛隊の任務の関係が優先する課題になっているように思える。

 米国のタイム誌が、岸田首相を表紙に使い、「岸田総理大臣は、平和主義だった日本を軍事大国に変える」と題した首相のインタビュー記事をWeb版に掲載した。後に「岸田総理大臣は、平和主義だった日本に国際舞台でより積極的な役割を持たせようとしている」と変更したが、外務省の「難がある」との指摘などがあったようだが、標題をどう変えようと、インタビューの内容は、同誌をして「日本を軍事大国に変える」と印象づけるものだったのだろう。紙媒体の雑誌の表題の「軍事大国」は変更をされていないという。

 外国の雑誌までがそのような印象を持つ中で、かつて専守防衛を旨としてきた自衛隊が、どこまでの装備を持てるのかというものだ。かつての枠組みが次々と崩されていく中で、これに歯止めをかけることがより優先の課題になっていると思える。

 こうして考えた時、古賀氏のように、かつて日本が国策の誤りの上で犯した戦争を踏まえた日本国憲法の枠組みを真剣に考え、この範囲で日本の自衛力を考えようという人たちは、自衛隊の評価を別にして手を取り合うことが可能だろう。そう確認させてくれた今日の講演会には大いに感謝をしたいと思う。

 なお、文化センター大ホールには空席も目立ったが250人を超える聴衆が集まったという。自衛隊活用のなし崩し的な拡大に歯止めを掛けるためにも、保守も、革新も、より多くの方に講演を聴いて欲しかったと思う。


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