イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

どこへ流れていきたいか?(自分はどこへ流れていきたいか 1/10)

2016-09-12 | 第一章「意識と知覚」

  この写真は若き日の卒業論文の発表風景である。髪がふさふさで、ふーんという感じであるが、丁度、心理学者ブルンスウィック氏のレンズモデルの研究が、いろいろ専門化しつつ分かれていくところを説明しているようだ。1975年のこと!もう、40年前のことである。ネットで調べると、運が良いのかいまだに意思決定理論の一つとしてレンズモデルは話題に上っているようで、少し誇らしい気持ちもする。

 しかし、自分の人生は、ずっとレンズモデルの研究をしていたわけではなく、当時としては想像もしなかった世界に流れて行っているようだ。ただ、当時の自分の傾向や渇望は、今でも、それこそ1975年の模造紙のように脈々と形は変わっても、それほど変わってないところもあるようだ。

 昨晩から、夏目漱石に関する本を読んだり、縄文小説のことを考えたりしているが、人生は普通にドラマチックなようだ。人それぞれの基本的な渇望や傾向。それは、不思議に人生に多大な影響を与えつつ、人それぞれ独特の道を歩まさせるようだ。

 夏目漱石の幼年時代は三つ子の魂100までも、と考えると決して幸せだったなどとは言えないようだ。それが後を引いたのだろうか、イギリス留学で心の病気になったりする。しかし、その中にあっても、若いころは建築家、その後は学者、そして小説家の道に流れていく。明治元年に生まれた漱石なので、まさに時代の大きなうねりの中で育ち生きていくわけであり、その生きざまはとても勉強になる。

 自分の中のネガティブな傾向と渇望の処理のしかた。あるいは、アイデンティティや生き甲斐といったポジティブな面の伸ばし方・・・このテーマは意外におもしろいかもしれない。

自分はどこへ流れていきたいか 1/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!


愛に関わる現実吟味力!(現実吟味力はあるか? 10/10)

2016-09-11 | 第九章「愛」

 地位も名誉もお金もあって、とても幸せそうなのに、なにか悲しそうにしている人がいる。その一方、今の自分は特にお金などはないのだが結構満足して生きている(笑)。その違いはどこからくるのか。私は、根深い愛の解釈の問題であることを、自分の経験から想像したりする。

 欧米人は、映画などを見ていると、よくI love you. としゃあしゃあと言うが、日本では身近な家庭の中でもそんなことはないようだ(最近は変わってきているかもしれないが)。しかし、愛する人が悩んでいたり困っていたりすれば、手助けしたり(時には分らないように)し、I love you.とは言わないものの、しっかり愛している。

 幼いころから、愛される経験は誰にでもあるのだと思うが、I love you.と言わない日本の文化の中では、他人からの愛を感じにくい、他人への愛を感じにくいという人も多いのではないかと思う(特にこの競争社会の中では)。幼いころから立身出世を目指したり、そういう周りの文化の影響は大きい。本当は愛されているのに、XX大学に入るまでは、XXになるまでは、愛されないと何処かで思い込む人。

 未来へのニンジンで今の愛が分らなくなる。

 愛の原型という解釈の問題は大きい。今日のような、のんびりした日曜日の朝に、自分の過去の愛された経験をあれこれ思い出したり、あれは無条件の愛だったと考えたりする。これは生き甲斐の心理学で大切な訓練の一つであるが、今日は私もやってみたい。切り口は条件付きの愛とそうでない愛かな。最近夏目漱石に凝っているが、「坊ちゃん」に出てくる下女の清などは、夏目漱石の愛の原型を考える上でとても良い。

現実吟味力はあるか? 10/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 


自分がヘンを認識する!(現実吟味力はあるか? 9/10)

2016-09-09 | 第五章「和解と平和」

 日々の暮らしでは、いろいろなことが起る。交通機関が遅延したり(昨日も)、事故があったり、人間関係がまずくなったり・・・そして、取り乱すこと、ヘンになることがある。すぐに立ち直れることもあれば、体調の関係もあるかもしれないが引きずって、ますます雪だるまのようになっていくこともある。

 そういったとき、自分であっても他者であっても、傷ついているときは、必ず現実吟味力は低下気味である。

 こうしたときの対処方法は、大事なことを判断したりしないで、おとなしく寝る。のんびりする。親しい人と楽しい会話をする。そんなところだと思う。

  ところが、そういう時に限って、大事なことに首を突っ込んだりする傾向がわたしにはあるようだ。そして、私に似た傾向を持つ人も少なからずいるようだ。

 一番私にとって大事なのは、ヘンになっている自分に気づくことなのだろう。

現実吟味力はあるか? 9/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 


自分と仲良くなって一回り大きくなる!(現実吟味力はあるか? 8/10)

2016-09-07 | 第四章「愛とゆるし」

 昨日は実に久しぶりに腰越の勉強会に参加し、夜は芥川賞をとった村田紗耶香さんの「コンビニ人間」を読んだりした。どういうわけか、丁度今考えている現実吟味力の問題に直結するようで楽しんだ。現実吟味力を健全に発揮するための条件を考えていると、今日はロジャースの6条件が頭に浮かんできた。傾聴やコーチングの条件にもロジャースの6条件は恐らく応用されているので、そんなものと考えればよいかもしれない。昨日はU先生の勉強会でこの6条件をいろいろ考えさせていただいた。

 自己否定的・他者否定的なときは自分の経験上、現実吟味力があまりよくない。まあ、スランプというかそんな時期である。本来ある自分の解決方法が見えず、他者の意見とか偏見の中で苦闘しつづける。

 若いころのことを考えたのだが、高校3年生くらいから浪人、大学1年生のころはまさしくこのスランプの時期だったように思う。それが。大学2年の時から変わってくる。それは、6条件が整い、自分の中の現実吟味力が良くなってきた時だ。自分の肌にあったクラブ活動、自分を受け入れてくれる友人・知人の登場、自分の傾向や渇望、好きな事の発見など。

 6条件的に考えると、自分自身へのラポール掛けは、夏休みの父の実家への旅行がきっかけだったように思う。コンビニ人間も、コンビニで働き始めたころの感動の次のフレーズ。「そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。」・・・こういった時を経験することは、素晴らしいと思う。

 私も、田舎のブドウ園の出荷作業を従兄弟達と手伝う中で、労働の実感というか何かをつかんだように思う。

 大学2年のはじめ、高校紛争や大学受験での後遺症の中にいた私を受け入れてくれた複数の恩人の存在。従兄弟とか学校の友達などは直接的な利害関係はなく、共感とか受容を知らず知らず自分でも訓練していたのだろう。

 現実吟味力が正しく機能しはじめると、健全な思考・感情・行動のループが回転し始める。これからすべきこととかが浮かんでくる。好奇心が高まり活動が熱を帯びてくる。それは他人に言われてやるというより、自分の中から湧きおこるものである。

 私の場合も、それからコンビニ人間も、新しい環境に適応していったという点では当初は成功したのだろう。ただ、時間と共にさまざまな変化があり、世の中は機械のように同じことを繰り返していれば良いというものではない。私も第2、第2のスランプを経験してくる。コンビニ人間の主人公も18年コンビニに勤める中で、ある種のスランプを経験しているのだろう。当然ながら、その時々の6条件の環境が必要だったりする。

 そんな時、生き甲斐の心理学を学んで自問自答で乗り越えることもできるかもしれないが、やはり、助けてくれる身近な存在がいたほうが良いと思う。

現実吟味力はあるか? 8/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 


意味ある偶然の一致が起るとき!(現実吟味力はあるか? 7/10)

2016-09-05 | 第三章「無意識の世界」

 先日、私が知っている限り最大の発明家のNさんのお話しをお聴きし感激した。何かを乗り越えることは誰にとっても大変なことであり、乗り越えられないことも多々あるものだ。しかし、乗り越えることができることもあるだろう。人生の転機でも大発明でも、そういった時には何か不思議な現象がおこるように感じる。ニュートンのリンゴなど、世の中ではセレンディビティとか意味ある偶然の一致と言われる現象だ。それそのものの不思議さも私は関心があるが、それよりもセレンディビティを産む土壌にとても関心がある。

 月並みな表現になってしまうが、「人事を尽くしてて天命を・・」などの言葉の意味するものは結構深い。人は苦難の中で、最後は自分の限界を知り天に祈るのだと思う。それが天命を待つとかであり、そこから新たな展開が始まる。

 生き甲斐の心理学では、現実と理想のギャップで苦しむときに、解決への土壌を「感謝」という、一見「あれ?」というような概念でもって乗り越えようとする。しかし、良く考えるとこれも「天命を待つ」に似ている。

 「天命」を待つとか「感謝」はどこか楽観主義が含まれているように思う、絶望ではなく希望の香りがする。そして、私はそれが大切だと思う。Nさんはプラス志向という含蓄のある言葉を使われたが、生き甲斐の心理学の用語を使っていいかえると、幸福曲線の追求といっても良いかもしれない。誰でも、黙っていてもストレス曲線に覆いつくされがちな人生ではあるが、その中で幸福曲線を敢えて意識することは、意味ある偶然の一致を呼び込む一要素になるのではないだろうか。

現実吟味力はあるか? 7/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!